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不知火血風抄  作者: 高倉麻耶
二章
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二 其の壱

   二


 夕刻を告げる鐘が鳴った。

 火鉢のそばで、彼は目を醒ました。『鬼』の動き出す時が来たのだ。


 少しずつ雪が積もり始めている。彼は、黄昏の松林を歩いていた。小さな羽虫が舞うように、細雪が風に翻弄されている。薄い雲が空を覆い、病人のようなぼやけた満月が、うっすらと低いところに浮かんでいる。つめたい風に、体の心まで冷えきってしまいそうだ。しかし彼はその冷気が、自分には似つかわしいと思った。


 広大な林に立ち並ぶ松の木々の中には、特徴のある老木が何本かある。中でも、「主」と呼ぶにしいような、最も立派な大樹の元を通りかかったとき、突然、上から野太い声がした。


「おい、首斬鬼」


 見上げると、朧げな月明かりに浮かんだ松の枝に、人影らしきものが見えた。

 一瞬、ぞっとした。それは久し振りに味わう感覚であった。相手が誰であろうと、人の気配にまったく気づかないことなど絶対にあってはならない。しかも、彼自身少しも油断していたつもりはないのだ。


 彼は鯉口を切った。ほぼ同時に突風が吹いた。落ち葉や塵が輪になって浮き、舞い散った。彼は、粉塵が眼に入らぬよう注意しながら身構えた。


 前方にひとりの巨漢が立っていた。

 大きい。身の丈、七尺はあろうか。錯覚ではない。頼りない月明かりに照らされたその男は、ぼさぼさの頭に異国風のなりをして、仁王立ちに立っている。服の上からでも、隆々とした筋肉のかたちがわかるほど、逞しいからだつきである。顔は影になっていてよくみえないが、薄笑いを浮かべているようだ。


 何者であろうかと疑う前に、彼は自分自身を訝しんでいた。頸の毛がちりちりする。殺気ではない。何か、恐怖に近いものが、彼の中にうまれていた。


「あんたが首斬鬼さん、だよなぁ」


と、その男は繰り返した。


 彼は、刀の柄に手をやったまま身動きも取れずにいた。この奇妙な感覚は何だ? どれだけ人を斬っても、誰と相対しても、こんなふうに動けなくなったことなど無かったのに。いや──あった、かつて心の底に封じ込めた記憶の片隅に、おそらくこれに似た感情があった。だが思い出せない。彼の額に、じわりと汗の玉が浮いた。


 そのとき、彼の耳に届いたのは意外な一言であった。


「ちょっと、おれの仕事に手を貸してくれんか」


 彼は手から力が抜けるのを感じた。この男、いったい何を言っている?


「ここんとこ、ずっとあんたを捜していたんだよ」


 男の口調は馴れ馴れしい。だが不思議と嫌な感じはしない。嫌悪感が湧かないことに、むしろ彼は腹立たしくなった。男は、松の大木を見上げながら続けた。


「まぁ、賭けだったね。人を斬るによさげな場所で待ち伏せしてりゃあ、そのうち逢えるだろうと思ってな」


 そう言いながらぼりぼりと頭を掻く。その動作は、一見隙だらけにみえる。彼は奥歯を噛み締め、鯉口を切った。


 ぎん、という耳慣れない音とともに、異様な手応えがあった。


 上段へ払いに出た彼の刀が、何かに遮られている。否、遮られているのではなく、突き刺さっている。


 それは、鉄の塊のような大剣であった。彼の放った剣は、その巨漢が背中に挿していた大剣に、三分ほどめりこむような形で止まっていたのだ。


「おお、驚いたもんだな、こりゃ」


 男は無造作に手を伸ばして、刺さった刀を彼の手からもぎ取った。彼は放心していたらしい。あっさりと奪われた刀は、それが刺さっていた大剣から引き抜かれ、ぐにゃりと曲がった形で足もとに抛り投げられた。なんという怪力か。


 彼は、ただ茫然とその男を見上げた。


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