五 其の拾参
彼女の話では、夫の顔を最後に見たのは節分の頃であったという。いつもと変わった様子は特になかったが、出かけるときに、
「いつになるかわからないが、おれの同僚がきっと訪ねてくるだろうから、そのときはこれを渡してくれ」
と言われ、文を預かった。
千春はそれを言われたとおりに、大切に仕舞いこんでいた。ところが白石が何日経っても戻ってこない。そのため、心配になり奉行所に訪ねていった。その数日後、ひとりの役人が訪問に来たので、白石から預かった文を手渡した。
「封をしてありましたので、中は一切見ておりません」
「渡した相手の名前は?」
「それが……お伺いはしたのですが、うっかり失念してしまいまして」
千春は申し訳なさそうに項垂れた。柿村は腕を組んで、応対しそうな人物を思い浮かべた。
「顔の特徴とか、背格好だけでも思い出せませんか」
「そうですね……お若い方だったと思います。痩せ型で、背が高くて、顎が少し……」
「顎が少し?」
千春は困ったように言いよどんで、手で示した。柿村はすぐに理解した。しゃくれている、と。
昼飯のざる蕎麦を啜りながら、柿村は思考をめぐらせた。まず、白石が土生家について調べているのは確かで、さらに手紙を書いたということは、明確な目的をもって出奔したということである。もし身の危険を感じて逃げるとするなら、妻子を連れていく筈ではないか。敢えて家族を置いていったということは、そのほうが、彼女たちの身は安全ということを示している。ならば、やはり白石の個人的な判断というより、奉行か誰かの指示で動いているとみるべきであろう。
しかし、白石は手紙にどのようなことを書いたのか? 自分がもし白石の立場だったら、まず何を書くか。
「そうだな」
柿村は、聴こえるか聴こえない程度の声でつぶやいた。昼飯時の蕎麦屋は賑わっており、彼の独り言はきれいに掻き消される。
「奉行に……いや、万が一ってことを考えるか」
箸が止まった。蕎麦は、まだ半分ほど残っている。
柿村の頭の中で、想像上の白石が動き出した。まず土生村の様子を見て戦慄した白石は、それを上役へ報告する。しばし上役からの指示を待つが、上役は彼の報告を俄には信じられず、時期をおいて再調査を命じる。ここで痺れを切らしたのはむしろ白石のほうで、上役を無視して奉行へ直訴する。そのとき奉行が白石に何かを命じ、彼はその命にしたがった。
「いや、でも行方をくらます必要があるかな」
柿村は首を傾げた。彼はなぜ姿を消したのか? 土生家のことを調べるのに、たとえば遠くへ行く必要があったのだろうか。いくら考えてみても、今までに得た材料だけでは、これ以上のことはわからない。
(白石の文を探さねば)
奉行所にいる人間はほとんどが顔見知りだが、白石の妻・千春の言う「少し顎のしゃくれた、痩せ型で背の高い、若い男」には、該当する人物が思い当たらない。
(何者だ?)
そのとき目の前のざるを片付けられそうになり、慌てた柿村は、
「いや、まだ喰ってるんだ」
と店子を引き止めた。それから、残りの蕎麦を一気に片付けようと頬張ったが、ぬるくなった蕎麦は、すっかり不味くなっていた。