五 其の捌
突如、桜木が刀の鞘を畳の縁にぶつけた。そして俯いたまま、呻くように声を搾り出した。
「……不知火殿」
「なんだ」
「おれが錦殿に勝ったら、おれの妻になってくれますか」
「勝ったらな」
不知火の返答を聞いて、桜木はほっとしたように深く息を吐いた。それから、ぼそぼそと小さな声でつぶやいた。
「おれは今まで、誰にも心を奪われたことなど無かったのです」
「……」
「あなたが女で、よかった」
不知火は、ぼんやりと桜木の顔をみていた。
「桜木」
「はい」
「わたしは、子を産めぬ」
「は……」
桜木の大きな眼が、まるく見開かれ、余計大きくなった。不知火は彼に背中を向け、いつものように淡々と話そうとした。が、声音が震えた。動揺している自分を、どこか頭のうしろのほうで、もうひとりの自分が冷ややかに眺めている。
「わたしが八歳のとき」
――やめろ。
ずきん、と後頭部に痛みが走った。思わず顔を歪める。頭の中に、ききおぼえのある男の声が響いた。だが、不知火はそれに構わず続けた。
「祖父が、命じて……」
――やめろ!
(いや、やめぬ)
と、不知火は心の中でつぶやいた。女の声だった。肩や膝が震えだし、不知火は自分の体を強く押さえた。
「わたしの体から、子を産むための部分を切り取らせた」
それだけ言うのがやっとだった。
言い終わると同時に、後ろから抱きすくめられていた。夜気で冷えた手足に、桜木の体温が伝わってくる。
「いい、です」
吐息が耳にかかった。桜木は震えていた。ほとんど声にならないような声が、熱気となって、不知火のと頬を温めた。
「もういいです、それ以上は言わなくていい」
緊張が解け、ゆっくりと力が抜けた。額には、冷汗が滲んでいた。不知火の耳元で、桜木は洟を啜った。
「……泣いているのか?」
自分でも驚くほど穏やかな声が出た。返事のかわりに、桜木はまた洟を啜り、袖口で顔をこすった。身を離そうとした不知火を、桜木はもう一度引き寄せて、さらにかたく抱き締めた。
「すまない。いましばらく、このままで」
不知火は頭の片隅に、赤城の言葉を思い浮かべた。「どうなっても知らんぞ」と言った彼の心配事が、今ようやく理解できた。おそらく赤城は、以前から桜木の想いを知っているのだろう。そして、錦と不知火の関係も。赤城はそれを考慮したのだ。
そのとき階段をみしり、みしりと昇る気配がした。桜木は弾かれたように不知火から離れ、すぐさま鯉口を切った。
「不知火さまへ、錦さまからお言伝てに御座います」
老いた店主の声である。桜木は安堵して刀を戻した。
障子を開けようとした店主を制するように、鋭い声で桜木が言い放った。
「そこで言え」
店主は伸ばしかけた手を途中で止め、大きく咳払いをした。
「お屋敷へお戻りになられるように、とのことで御座いますが」
「あいわかった」
桜木は店主が階段を下りる足音を確かめてから、不知火に背を向けたまま言った。
「先ほどの非礼、どうかお赦しください」
「……桜木」
不知火は立ち上がり、すばやく身支度を整えながら、
「礼を言う」
と、つぶやいた。