四 其の伍
白刃が月光に閃いた。
いつの間にか、刀を抜いていた。不知火は不意を突かれて驚いただけで、何も考えていなかった。ただ、咄嗟に体が動いてしまったのである。
何か熱いものが頬に当たった。不知火は刀をかたく握り締め、目を閉じたままびくっと体をふるわせた。両手両足は押さえ込まれ、ほとんど身動きが取れない。
「……なあ……」
低く抑えた錦の声が、耳に届いた。その息で、また不知火は身を震わせた。ぼたり、ぼたりと、頬に何かが落ちてきた。その臭いと、熱さと、流れる感触とで、ようやくそれが血であることがわかった。
「おかしいんだよ、不知火……おれは」
囁くように、錦が言う。まったく酩酊などしていない、素面の声である。不知火は緊張を少し解いて、薄く瞼を開いた。
「なんでかなァ……おまえに斬られたいって、思っちまうんだよな……」
不知火は横に向けていた顔を動かし、錦の青い双眸をみた。あの夜と同じ真摯な眼差しが、宵闇の中で星のように輝いている。そして錦の右額から鼻梁を抜けて左頬まで、ぱっくりと肉が裂けていた。
「おかしいだろ? なぁ、不知火」
錦は、どこか寂しげな表情で微笑んでいた。
「錦」
掌から、刀が滑り落ちた。不知火は、たったいま錦の顔に自分がつけた黒い傷を、幾度も目で辿りながら言った。
「わたしもおかしいのだ」
「……」
「おまえに、このようにされることが嫌だったはずなのに、なぜか」
抑えようとしても、どうしても声音が震え、うわずってしまう。
「……なぜか、うれしい」
その夜二人はそれ以上、言葉を交わさなかった。
翌朝、錦の顔にできた大きな傷が、男たちの関心の的になった。臙脂和尚は医師を手配して錦の傷を縫わせたが、手当てが遅かったとみえて皮膚のずれは治らなかった。数日間、屋敷は「傷をつけた人物は誰か」という噂で持ちきりになったが、面と向かって錦にそれを問う者はいなかった。錦も不知火も、何事もなかったかのように、そ知らぬ顔をしていた。
不知火は、みずからの胸のかるさに驚いていた。長い間患ってきた病が癒えたような、妙にすっきりとした心地良さがある。何をするにも相変わらず無表情であったが、錦と二人のときだけは、ほんのわずかに色づいた桜の花びらを思わせる、不器用な微笑みを向けることがあった。それに気づくと、錦は鬼の首でも獲ったかのように喜んだ。
最初に不知火を抱いて以来、錦は決して強制することはなく、そっと優しく寄り添うように、彼女を腕の中に抱きしめた。不知火は、ほとんど嫌がらなくなった。そして錦は、それ以上のことをしようとはしなかった。
ひと月、ふた月とそうした日々が続くうち、不知火は自分の中で何かが壊れていくのを感じ、不安になった。目に見えないところで、何かが大きく変わっている。ずっと大切にしてきたものが瓦解し、音もなく崩れ、失われていく。その喪失感の原因が、不知火にはわからない。不安は水垢離を行うことで一時的に消え去るが、油断するとすぐにまた、彼女の心を曇らせた。
ときどき、桜木が遠くから自分をみつめていることに気づく。屋形船での花見以来、桜木はほとんど不知火に近づかなくなった。唯一、朝稽古で撓を握ったときだけが、まともに向き合うときである。それも言葉を交わすのは、わずか二言、三言のみ。隣に並ぶことがあっても、桜木は不知火のほうにはまったく顔を向けない。
あのとき桜木が言った「勝ったら妻になってくれ」というのは本気なのだろうか、と不知火は思った。彼は、あまりそういうことを冗談では言わないだろう。が、どうしても疑いたくなる。
時間が経てば熱が冷め、気が変わるかもしれない。いや、それは自分がそう望んでいるだけか。わたしは一体どうしたいのだろう? このまま、いつまでもこの屋敷で錦の妾じみたことをしていたいのだろうか。
否、否。考え出すと、歯痒くなってくる。わたしは、ここで何をしているのか。ずるずると錦に甘えて、少しずつ堕落しているような気がする。当初の目的は? なぜこの男どもの首を斬らぬ? 憎いのだろう? ひとり残らず殺すのだろう?
ひとりで自室にいるとき、不知火は身が凍えるような思いをしながら刀に縋りつく。剣だ――わたしは、剣なのだ。殺すためだけに創られた道具。飾り物ではない。殺すこと以外に、わたしの存在意義など、あってはならない。そして彼女は、刀を抱いて横たわったまま、冷たい沈黙にその身を浸すのだった。




