三 其の漆
着替えをすませ、髪を結い直した不知火は、その足で新築の剣道場へ向かった。土蔵と錦家の庭を半分潰して造られたその建物は、真新しい木肌のため未だ落ち着きはないが、錦の巨体を思わせるような風格がある。だが、やはり錦自身と同じように、どこか場違いな雰囲気もあった。
朝餉の前に、男たちがこの剣道場で一汗かいてくることは知っていたが、その様子を目にするのは初めてだった。不知火の存在に気づくと、彼らは一様に色めきたち、稽古をやめて彼の動向を見守った。ただ一人、栗田だけが変わらず木刀を振っている。
「『撓』という、竹の刀がある」
桜木は、割った青竹を麻紐で括った形の模擬刀を、二本携えてきた。そして、うち一本を不知火に手渡した。
「これで、稽古をつけていただきたい。手加減は御無用」
「……」
不知火は、黙って二、三度それを振ってみた。竹の間を風が抜けるため、ひゅん、とうなる。そして、鞭のように撓る感触がある。なるほど「撓う」から「撓」と呼ぶのだ、と合点がいった。竹刀というものなら使ったことがあるが、同じ竹で出来ていても、目的は少し違うもののようである。
おそらく、この「撓」は、人に怪我をさせないために工夫されたものなのだ。不知火がもし普段どおりに打ち込んだら、木刀でも相手を殺しかねないという自覚がある。だが、これなら骨は砕かず、打撲程度で済むかもしれない。
「そいつはおれと桜木のいた道場の師範が、発案したものだ」
赤城が、同じ「撓」を杖のようにして顎を乗せ、にやにやしながら二人を見ていた。
「打たれても気絶程度で済むぜ、桜木」
「やかましい、おれだって打たれるつもりで頼んじゃいない」
桜木は十分な間合いをとるため不知火から離れた。それを見た栗田が手を休め、壁際に正座した。それにならい、男たちは並んで腰をおろした。朔の会でも栗田は最も上座に居り、屋敷の者たちからは一目置かれているようである。
「よろしいか」
言いながら、桜木は正眼に構えた。至極まっとうな剣の修行を積んできたとみえる。不知火は下段に構えた。正眼に構えた者と相対するにしては、少々変わった対峙の仕方である。
「……首を斬られんようにな」
赤城の冗談に、幾人かが反応して笑いが漏れた。桜木の表情は真剣そのものである。男たちは居ずまいをただし、おとなしく見守った。
どこか遠くで、鶏のなく声がした。
その直後、桜木は苦悶の表情を浮かべて床に這いつくばっていた。
「見事」
栗田が言うまで、誰もが息を呑んで圧倒され、身動きも取れずにいた。上段を突きにいった桜木より迅く身を沈めた不知火が、桜木の胴を真横に払ったのである。
「ぶったまげたぜ……突きより先に届く『払い』なんてもんがあるんだな」
赤城の呟きに、周囲の者が放心しながら頷いた。桜木は、咳き込みながら脇腹を押さえ、よろよろと立ち上がった。それから両膝に手をついて、荒く息をした。もし真剣であれば間違いなく胴が二つに分かれていただろうが、とりあえず骨折している様子はない。それを見た不知火は、なんの表情も浮かべず、「撓」を床に抛り投げて道場を出た。




