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不知火血風抄  作者: 高倉麻耶
三章
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三 其の伍

 早朝、不知火は水垢離をし始めた。これは、土生家にいた頃の習慣である。


 いつからか、みずからの胸にひとつの誓願を立てていた。「二十歳以上の男はすべて首を斬る」というその誓願には、理由もなければ意味もなかった。「ない」というより、忘れてしまったのだ。にも拘らず、その誓願を遂行するためだけに剣の修行を続け、出奔に至るまで一日たりとも休むことなく、ひたすら鍛錬に勤しんできた。


 だが、どんなに努力しても「男」になりきることはできなかった。どうして初めから男に生まれなかったのか。厳しい祖父の残酷な態度に接するたび、そのことに苛立った。鬱積した感情が爆発しそうになると、水垢離をして迷いを払うようになった。


 迷いが生まれ、振り払う。そのたび、彼の誓願はよりいっそう強固なものになった。そうして十五年のあいだに、毎日少しずつ、少しずつ、彼の感情は磨耗していった。表情は消え、こころは凍りつき、精神は鋼の如く硬化した。胸の裡に、誰も知らない「誓」を秘めて。



 錦の目覚めは早く、起きて身支度をするのは、だいたい夜明けの頃が多い。錦が起きれば護衛の役目はいったん終わり、部屋に戻る許可が出る。不知火が眠るのはその後になる。


 真冬の井戸から汲んだ水は、凍てつくような冷たさである。その感覚が、今の不知火には必要だった。みずからを罰するかのように、氷の如き冷水の塊を頭にぶつけながら、彼は考えた。


 当初、錦が自分に求めていたのは、おそらく暗殺者としての技倆のみであったろう。だが、いつしかそれは変化し、錦は自分に「仕事」をさせるのがいやになった。何故か? 考えずともわかる。不知火を女として見ているからである。だが不知火は、錦の「他の女は要らない」という言葉が真実だとは思っていない。今夜にでもどこぞの色街に繰り出すか、知れたものではない。


 毎晩、行灯の側で錦の寝顔を眺めながら、不知火は体の芯が熱くなる自分を許せずにいた。あれほどの屈辱を受けながら、もう一度それを体験したいという不気味な欲望が、「彼女」の中に生まれている。自身を男とする「彼」は、男の肌を求める「彼女」をおぞましく思い、不知火の中で「彼」と「彼女」は葛藤を繰り返す。


 ばしん、と冷水を頭に打ちつけていると、迷いを払えるような気がする。不知火は、錦のせいで目覚めてしまった「女」としての自分を、殺して土に埋めてしまおうとしていた。





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