三 其の参
急拵えの剣道場が形になり始めた頃、不知火は、飯炊き人を含め錦の屋敷に出入りしている男を、すべて正確に把握していた。土生村に居た頃と同じように、いざそのときが来たら、確実に首を斬るためである。多くは名前がわからないが、顔と背格好で識別している。
毎日刀の手入れをしながら、不知火は、幾度も想像をめぐらせ、男達を斬る順序を考える。それは、料理の手順を考えるのに似ている。あるいは、「頭の中で図を描いている」と言えるかもしれない。如何に素早く、如何に滞りなく、確実に終わらせるか。不知火は、日々それだけを考えていた。
屋敷の中で寝食する者が増えるにつれ、錦は忙しくなってきたようである。そしてある夜、寝所での護衛まで不知火に命じた。
「斬られるとは思わないのか」
布団に横たわった錦の無防備さに呆れ、行灯の横に正座したまま不知火は尋ねた。錦は自分の隣を叩いてみせる。
「斬りたければ斬るがいい。それともここで一緒に寝るか?」
「ふざけるな」
不知火が抜くと同時に、苦無が飛んできた。刀で弾いたそれは、天井に刺さった。襖の隙に伸びた細長い闇に、錦が声をかけた。
「和尚、よい。邪魔するな」
「……承知」
臙脂和尚の声がして、気配は闇に消えた。「護衛」は名目に過ぎないことはわかっていたが、座頭に扮したあの老忍者が、常に油断なく自分を見張っていたことに、不知火は強い羞恥を感じた。恥辱感は、そのまま怒りに変わった。
「答えろ、錦。なぜわたしをそばに置く」
「気に入ったからさ」
かっと頭に血がのぼり、顔が熱くなった。不知火は獣のような声を上げ、錦に切りかかった。が、その切っ先は宙を泳ぎ、腕を掴まれると同時に視界が反転した。煽られて、行灯の火が消えた。
一瞬で、布団の上に組み敷かれていた。錦の表情は暗くてみえないが、その両眼だけが光っている。錯覚かもしれないが、虹彩は青灰色をしていた。こんな色の瞳は見たことがない。押さえ込まれて、不知火は動こうとしたが、岩の下敷きになったかのように、少しも抗えない。
「のけ!」
「のかぬ」
錦の顔が近づき、息がかかった。嗅いだことのない、不思議な匂いがした。手から力が抜け、刀が落ちた。叫ぼうとした。唇を塞がれている。屈辱のあまり両目から涙が溢れた。うまく息ができない。意識が遠くなりかけたとき、ようやく錦の口が離れた。
肉厚な錦の唇から解放されて、不知火は大きく息を吸った。次の瞬間、歯の間から舌が侵入してきた。首を横に向けて振り払い、逃れようとしたが、錦の唇は執拗に追ってくる。不知火は言葉を忘れ、ただ動物のように唸りつづけた。食いしばった歯の間から、か細い悲鳴のような声が漏れた。
「おれがきらいか?」
不知火の小さな耳に唇をつけて、錦が言った。
「きらいだ」
と不知火は吐き捨てた。
「男はきらいだ。みんな死んでしまえばいい」
「そうか」
「殺してやる」
「そうか」
そのとき障子がやや明るくなった。月が庇の下に出たのである。そして、闇の中にあった錦の顔が、うっすらと視えた。
胸を突かれたような気がした。心臓が大きく鳴った。まっすぐに不知火をみつめている錦の眼は、愛する女を求める男のものであった。これまで自分が錦から女として見られていたことに、不知火はまったく気がつかずにいたのだ。
「おれのものになるのは、いやか」
「……」
今度は即答できなかった。先刻までの怒気は消えかかって、かわりに何か秘密めいた、奇妙な高揚感が湧きあがってきた。
「なぜだ」
再び唇を重ねようとした錦に、不知火は、かぼそい声で尋ねた。錦の動きが止まった。睫毛が触れそうなほど近い距離で、二人は互いの瞳をみつめあった。
「女なら、他にいくらでもいるではないか。なぜわたしにこんなことをする」
「おまえがいい。他の女は要らん」
「錦!」
不知火は叫んだ。目を閉じ、逃れようと必死で顎を上げた。
「わたしは女ではない! 男だ、間違えるな!」
「間違えているのはおまえだ、不知火」
「……」
「おまえは女だ、認めろ。認めて、おれのものになれ」
不知火は大きく息を吐いて、黙り込んだ。
それは、誰にも言われたくない一言だった。錦は無神経に、土足で「彼女」の心に踏み込んできたのだ。そして、そのとき彼女の胸に去来したのは、厳しい祖父の顔、生活のすみずみににわたる無数の言いつけ、それから――どこか桜木と似た印象のある、土生道場門下生の面影であった。




