十一 其の廿
「おかしいな、どうも腹具合がわるい」
すっきりせぬ面持ちでぼやきながら、柿村は厠を出て手を洗った。そのとき突然、二つの黒い人影が厠の上から飛び降りてきた。あっという間に柿村は両側から腕を捕られた。
「うわっ! なんだ、貴様ら、何をする」
騒ぐ柿村を無視して、その二人は彼の腕をがっちりと押さえ込んだまま走り出した。物凄い力だ。柿村は子どものように持ち上げられ、運ばれていく。
「やめろ! 何なんだ!」
「うるさい、死にたくなかったら黙れ」
覆面をした二人のうち、柿村の右側にいるやや大柄なほうの人物が答えた。なんと女の声である。よく見れば、大きく盛り上がった乳房が服の下でゆさゆさと揺れている。左側の小柄なほうは、どうやら男のようだ。それにしてもこの二人、なんという足の速さだろう。左右の怪しげな人物は、柿村を両側から抱え持ったまま、息をぴったり合わせて川の土手を駆け上がった。
「黒猿! 火がついた」
突如、女が叫んで立ち止まった。柿村は草地の上に下ろされ、四つん這いになった。息をつき、立ち上がって彼らが睨みつけているほうを見ると、夜空に赤々と火の手が上がっている。ほんの少しの間に、店から随分離れたようである。燃えているのは何処だろう。柿村は目を細めて、見覚えのある建物から現在位置を確かめた。
「あっ? ありゃ、さっきおれがいた店じゃねぇか」
思わず叫ぶと、女が振り向いた。
「そうだよ。あたしらが助けなきゃ、あんた今頃お陀仏だったんだからね」
「そう言われても、おれには訳がわからねぇ。あんたら、一体何者なんだ」
黒猿と呼ばれた小柄な男が、覆面を取って顔を見せた。茫々と月代の伸びた、浪人風の顔である。鼻が低く、眉が横に伸びて繋がりそうになっている。なるほど「猿」によく似た顔立ちだ。
「俺の名は黒須佐ノ助だ。あんた、『首斬鬼』を追ってる同心だろ? 白石彦次郎に会ったんだろ」
「白石を知ってんのか」
「おう。白石は俺たちの味方よ。そんで、敵のところへ行ったのさ」
黒須と名乗る男は、ぞんざいに説明しながら女に目配せしている。やがて女も覆面をとった。長く豊かな黒髪が、ばっさりと目の前に落ちてきた。
「あたしは紅羽。ほんとは、好い男以外には名乗らない主義なんだけど。まあいいわ、今回は特別」
「なに言ってんだ」
柿村が目を剥いて呟くと、紅羽と名乗るその女にいきなりバチッと頬を叩かれた。目から火花が飛ぶ。手加減はしているのだろうが、遠慮など微塵もせぬ容赦なき平手打ちである。
「命の恩人に向かって、なんだいその口の利き方は! あたしゃ忍だよ。他の女どもと一緒にしてもらっちゃ困るねぇ。知ってるかい? 忍の女は、侍よりも強いのさ」
「は……はい」
まるで母親に叱られたような気がして、思わず柿村は素直に頭を下げてしまった。勢いに呑まれたのである。
「紅羽、どうする」
黒須が、勢いを増した炎を顎で示しながら言う。紅羽は視線を横に走らせて、油断なくあたりを伺いながら答えた。
「追ってきた様子はない。こいつは、標的ではないらしい。あっちは鼬がなんとかしてくれるだろ。屋敷へ戻るよ」
言い終わるや否や、紅羽は忍装束を脱ぎ始めた。その下は裸かと思ったら、なんと薄手の浴衣を着込んでいる。一瞬で、どこにでもいる町娘に化けてしまった。驚いた柿村が振り向くと、黒須も、いつの間にかただの浪人姿に変身している。
「行くよ、ついてきな」
素早く髪を整えながら、紅羽が柿村に声をかけ、踵を返した。そのまま、黒須と夫婦のように連れ立って歩き出す。もはや怪しい人物には見えない。
「見事なもんだなぁ」
狐につままれたような思いをしながら、柿村はおとなしく二人の後ろについて歩いた。




