崩壊は突然に
床牧ひなみ、中学二年生。
住んでる場所はわりと都会的で、とりわけ高くもなく低すぎもしない偏差値の公立中学校に通う、十四歳の女の子だよ。
体を動かすのが好き。勉強も楽しい。
他人と関わり合うのも得意なので、男女問わず同級生との交流はそれなりにあって、毎日充実したスクールライフを送っていた。
…そう、充実したスクールライフを送っていた。
たった今、この瞬間までは。
『あーあー、こほん。聴こえているかね、女性の皆さん』
いつもと変わらない徒歩通学途中、慣れ親しんだ通学路で私たちはとても奇妙な現象に見舞われた。
どこからともなく街中に響き始めた、言葉の端々からあどけなさを感じるこの女性の不思議な声…だけではない。
つい今しがた家の敷地から出てきた笹倉さん家のお父さんや、散歩中だった箕島のお爺さんと飼い犬の耕三郎、いつもすれ違い様にスカートをめくってくる小学生男子などなど、とにかく目につく範囲内から男性だけが消滅してしまった。
本当に何の前触れもなく、男性たちがいきなり蒸気みたいにフワァッと消えていった。
この謎現象はあちこちで同時に起こっているらしく、全方位から甲高い悲鳴の波が襲ってきた。俗に言う大パニック状態だ。
私もいま自分の目で見たのが現実で起きた事なのか全く信じられなくて、ご近所の塀に背中を預けて脱力した。
そんな街の惨状を知ってか知らずか、不思議な声はマイペースに語り続けていた。
『私はルーラ。つい先程まで、敵対組織とあらゆる欲望を叶える戦い的な事を行っていて、無事優勝したからこうして願いを叶えさせて貰った』
何なの急に。朝っぱらから荒唐無稽にも程があるよ。
いや荒唐無稽さに朝とか関係ないよ。ダメだぁ、思考がぐるぐるしてきた。
『私が欲した願いとは、ノーリスクで森羅万象を意のままに操る全知全能の力。全世界に向けたこの音声配信は、聴者の認識に合わせて言語を対応させているから、誰もが私の言葉を理解できているはすだ』
パニックで誰の耳にも届いていないと思いますが。
ゾンビパニックが起きた時ってこんな感じなのかな、というかゾンビとか湧いてないよね?
とりあえず私はこの声、ルーラの演説に耳を傾けつつも、気合いで足腰に力を込めて駆け足で学校に向かった。
絶叫しながら家屋を飛び出す主婦、うずくまる学生、泣きわめく子供。彼女たちの側を通り抜ける間も、ルーラは独りよがりの演説を続けていた。
『さて、私の力が正常に作用しているのなら、現在皆の目の前からは生物学上「オス」に分類される生物が消滅していることだろう。彼らは本日を以て、この世界から淘汰されたのだ』
訳がわからない。男性を淘汰?
担任の佐伯先生、副担の倉前先生、同級生の横山君、鷲尾君、瀬戸君、賀数君、箱崎君、嶋田君、三津谷君、江野君、広瀬君、塩江君…みんなが消滅してしまったってこと?
お母さんが私を産んですぐ蒸発したという、顔も名前も知らないままのお父さんも、文字通りさっきの人々みたいに蒸発してしまった…?
少し思考が落ち着いてきた。注意深く辺りを観察すると、電車も新幹線も、飛行機も車も船もみんな止まっている。道路では大規模な渋滞が発生しているものの、不思議と事故は起きていないみたいだ。
これも彼女、ルーラ…さんの力とやらなのかな。
『愛する者、大切な子供を失った痛みは壮絶だろう。だがこれも敵対組織を根絶するために必要な措置だったと理解して欲しい』
そもそも敵対組織ってなんなんだろう。
地球侵略を目論む異星人とか、異世界がどうたらって話?
『何を隠そう私…私たちは無類の百合好きでね。敵対組織「百合に男を挟ませる癖の者共と、その温床足りうる男性を排除するためだけに、この厳しい戦いを勝ち抜いてきたのだッ』
ズコー。
青天の霹靂級大惨事至らしめた理由が下らなさすぎて、時代錯誤な転び方をしてしまった。
しかも百合に男を挟ませる癖って、ルビ付きの文字が空中にでかでかと投影されてるし。
恋人や愛する家族、推しの俳優にアイドルに配信者、インフラ整備、その他重労働を行ってきた人々を失ったことによる大暴動が起こる気配しかしないんだけども。
『私たち百合の花束は、今や神話の神々すらも超越した存在。これから君たちには、我らの監理下で生活を送ってもらうことになる…』
今度は百合の花束って文字が、さっきの敵対組織の名称を押し潰すように出現した。
…ごめんなさいだけど、ちょっとださい。
私はよろよろと立ち上がって、セーラー服に付着した砂ぼこりをはたいた。
「いっ…」
スカートをはたいた時、右の膝にツキンとした痛みが走った。転んだ拍子にタイツが破れ、擦りむいてしまったようだ。
幸い大きな擦過傷ではないため、走ることに大きな支障は出ないだろうけれど、早く洗わないと後で化膿してしまうかもしれない。
私は肩にかけていた紺のスクールバッグを下ろし、水が入った飲み口の広い500mlボトルと普段から持ち歩いている応急手当てセットを取り出した。
「あっ、ひな…ちゃーん!」
ミニボトルのキャップを捻ったところで、進行方向からよく見知った顔の女の子が、息を切らしながら不格好なフォームのまま私の元へ駆け寄ってきた。
明るい色のボブヘアに、いくら整髪料を使っても従わない猫耳のような形の謎癖毛を称えた、私より頭ひとつ分背の高い、かなり発育のいい少女。
私の同級生であり、幼稚園からの親友、喜薪ほのかちゃん、通称ほのちゃん。
「よかっ…ひなちゃ、げほっ、ごっほ!」
「落ち着いてほのちゃん。ほら、お水だよ」
「あ、ありがと…」
傷口の洗浄に使おうと思って用意した水を手渡すと、ほのちゃんはオアシスにたどり着いた砂漠の遭難者みたいな勢いで、あっという間に飲み干してしまった。
うっかりやなほのちゃんのことだ。焦るあまり、急いで制服に着替えてから何も口にせず、勢いで家を飛び出してきたんだろう。
胸元のスカーフはほどけたままだし、いつも着用しているニーソックスも履いていない。おまけに足元は愛用のウサギちゃんスリッパという出で立ち。
元々ほのちゃんは運動が得意ではないけど、余計に走りにくいわけだ。
「ぷはー…ごちそうさまでした」
「お粗末様でした」
「…じゃなくて、大変なんだよひなちゃん!」
うん、水を飲んですぐに落ち着くような子じゃないとわかってた。
普段はおっとりぽやぽやしているほのちゃんは、気分が昂ると「うがーっ」ってなって、言いたいことをぶちまけないと止まらないんだよね。
「朝起きたらパパがトイレに入ったまま居なくなっちゃったらしくて、私もお姉ちゃんもトイレ使えなかったの!」
「要点そこでいいの?」
「昨日の夜ジュースたくさん飲んでそのまま寝ちゃったから…あっちょっともう、だめかも…」
パパの消滅より乙女の一大事が勝ったのね。実にほのちゃんらしい。走り方が不格好だったのも、そのせいだったのか。
しかし困ったな。この辺りに用を足せる場所は無いし、路地裏でこっそり…って訳にもいかない。
幸い街中がパニックに陥っているけれど、こんな往来で粗相なんてしてしまったら、巡り巡ってほのちゃんにちょっかいかける広瀬君の耳に伝わり…あ、広瀬君ももう居ないんだっけ。
じゃあ粗相してもいいじゃない、って訳にもいかないし…と、視線を泳がせた先に見つけたのは、ほのちゃんが飲み干したばかりの空のボトル。
…我ながらちょっとアレな考えかも知れないけれど、無為に決壊させるより止むなしだ。
私は応急手当てセットの中から除菌シートだけを取り出した。
「う~…もう無理ぃ…」
「ほのちゃん、こっち」
私はほのちゃんの手を握って、なるべく刺激しないように背の高い塀と塀の間に連れ込んだ。
「ひなちゃん、どうして急にこんなところに…まさか、ここでおトイレするの…?」
ルーラの言葉を信じるなら、ここは女性しかいない世界のはず。人目についても、やんごとなき事情があったんだと察してもらえることを祈って、私はほのちゃんの持っていたボトルを取り、飲み口を除菌シートで念入りに拭いた。
「私が持っててあげるから、ここにしちゃって。スカートのおかげで見えにくいはずだから」
「え、えぇ~…さすがにひなちゃん相手でも、それは恥ずかしすぎるよ…」
「ほのちゃんそそっかしいから、ボトル落としちゃうかもしれないでしょ。来年受験生なのに、お漏らししちゃう方が恥ずかしいと思うよ?」
「それもそっか…」
普段から丸め込まれやすくて心配だったほのちゃんの性格も、今じゃ渡りに船。昔はよく一緒にお泊まりしてお風呂に入ってたんだし、今さらこれくらいどうということはない。
…けど、何故だろう。妙にドキドキする。
「じ、じゃあ私はボトルを支えておくから、ほのちゃんは下着をずらして…その、ちょうどいい位置に合わせてね」
「う、うん…」
なるべくほのちゃんの尊厳を傷付けないように、飲み口を上にしてスカートの裾から差し込んだ。端から見られたら、私の尊厳も地に落ちるんじゃないだろうかこれ。
切羽詰まっているからか、ほのちゃんの思考力は著しく低下しているらしい。私の言った通りにスカートの中へ手を入れて、もぞもぞと準備を整えていた。
「…ひ、ひなちゃん、恥ずかしいから耳塞いでて…」
「両手でボトル持ってるからちょっと難しいかな」
「う~…じゃ、じゃあ…」
ぽふっ。
ほのちゃんは空いた左手で私の左耳を覆い、右耳を豊かな胸に押し付けて音を遮断した。
「こ、これで聞こえないよね…?」
ごめんほのちゃん、ちょっとくぐもっただけでバリバリ聞こえてる。
指の隙間と布のせいで密閉性が低くなってるんだな。
けれどこの緊急事態、聞こえないふりをするのが親友のよしみというやつ。
私は位置がずれないようにボトルをしっかり固定して、だんまりを決め込んだ。
脳内にはお気に入りのトラックをかけてリピート再生。そういえばこの男性アーティストも消滅してしまったのか…特にファンというわけではなかったけれど、新曲が聴けないとなると寂しい気もする。
「…んっ…」
そんな折、堰を切ったように始まった放流の様子が、ボトル越しに手のひらに伝わってきた。
…しまった。形だけ耳を塞いでも、振動と温もりはどうしても感じ取ってしまうじゃないのさ。
しかしこの生理現象、一度始めると途中で止めることはかなり難しい。よりしっかりと支えるために、ボトルの下方を持ったのも失敗だった。
小指から薬指、中指、人差し指へと、ほのちゃんの体温が推移していくのがはっきりと感じられる。
「っは…ぅ…」
加えて恥じらいを伴うほのちゃんの吐息と、右耳に伝わる爆音の鼓動。
…何でなんだろう、さっきから私もドキドキが止まらない。ほのちゃんの放流くらい止まらない。
500mlで足りるのか、少し心配になってきたその時…ボトルの振動が弱まってきた。
余韻を残しつつも、それはやがて完全に静止した。
でも、気付いていないふり。しばらく硬直していると、ほのちゃんの左手が私の頭から離れていった。
「お、おわった、よ…」
「あ、う、うん」
ボトルにはずっしりとした重量感が。まるで鞄から取り出した時と同じくらいの重さだ。
恐らくかなりギリギリのラインまで満たされていることだろう。私はスカートのポケットに入れていたキャップを取り出して、ほのちゃんのスカートの中にボトルを隠したままキャップを締めた。
これで中身が溢れる心配は無くなったね。私はようやく、ほのちゃんの胸から頭を離した。
「えっと、ほのちゃん、これ…」
と、幼馴染みの顔を見上げると、私の心臓が大きく脈打った。
そこには楽観的で子供っぽさしかなかったはずのほのちゃんの姿はなく、紅潮した頬に潤んだ瞳と艶やかな唇をわななかせる、妖艶な女性が居たのだ。
容姿は間違いなくほのちゃん。けれど雰囲気があまりに別人すぎて、私はたじろぐしかなかった。
「ひ…ひなちゃん…」
色っぽいほのちゃんが急に私の両肩をガシッと掴まえて、至近距離でじぃっとこちらを見つめてきた。
何なんだこれ…これもルーラさんの策略、みたいなものなの?
そういえば百合好きって言ってたし、残された女性たちに恋愛感情が湧くよう仕向けてるんじゃ…。
だとしたら、惑わされるわけにはいかない。ほのちゃんの目を覚まさせてあげなきゃ。
「ひなちゃん、わたし…」
「ほのちゃん落ち着いて、ね?ほら、駅前のエクレアの話しようよ」
ほのちゃんは大の食いしん坊、特にスイーツには目がない。全く色気は無いけれど、これは特大の有効打になるはず…なんて思った矢先。
「わたし、今日ポケットティッシュ忘れちゃったぁ…」
「…え?」
先程までの妖艶さは男性たちみたいに消滅して、いつものほのちゃんがカムバック。
ぴえー、と情けない声を上げながら、泣き出してしまった。
「ほのちゃんいつもティッシュ持ち歩いてないでしょ。はい、これ使って」
「あぃがとぅ…」
ほのちゃんは私に背を向けて、受け取ったポケットティッシュで後処理を行った。
涙は服の袖で雑に拭い、えへへ、と笑って再びこちらを向いた。そしてほのちゃんとは思えない迅速な動きで、私が手にしていたボトルを奪って自分のリュックに隠してしまった。そりゃ見られたくないよね、うん。
「えーと、それじゃあひとまず、学校に向かおうか?」
「そだね…みんな、どうなってるのか気になるし」
いつしか私の胸のドキドキも収まっていた。さっきまでの高鳴りとか、ほのちゃんが妖艶に見えたのは気のせい…だったのかな?
私は塀の隙間から顔を出して、往来に正常な判断力を残した人が居ないか確認してから、ほのちゃんの手を取って通学路に戻った。
するとほのちゃんが、ポツリと溢した。
「そういえばさっきから、あのルーラって人静かだね?」
「…言われてみれば、声が聞こえなくなってるね」
もしかして、ルーラさんの存在も気のせいだったのかな?
なら学校に行けば男の子たちも普通に
『いやー…詳細は伏せるが、通学路で放尿プレイとは恐れ入った。いやはや、実に素晴らしいものを見せてもらったよ。ありがとう』
「!!?」
私とほのちゃんの体が、雷にでも打たれたかのように停止する。
こんな状況、こんなタイミングで、ルーラさんが口にしたような行動を他の誰かが取っていたとは思えない…どこからか、見られていた…?
『全人類には毎月一律二百万円、仕事や学業などに勤しむ方には倍額の四百万円を支給して、生活をサポートさせてもらうが…素晴らしいものを見せてくれた君たちには「特別あら^~」ボーナスを進呈させていただこう。次に口座を見る時を楽しみにしていてくれたまえ』
「「全然嬉しくなーい!!」」
喋る速度も声のトーンも異なるほのちゃんと、奇跡的に声が重なった。
幸い街の喧騒にかき消されて身バレはしなかったものの、私たち大切な何かを失った気がする。
『そんなわけで、今後私たちは君たちに口出しはしないが、密かに生活を見守らせてもらう。自然で素晴らしいものを見せてくれた者には、特別あら^~ボーナスを進呈するつもりなので、その気がある者は積極的に行動を起こすべし…ただしボーナス目当ての不自然な行動は違法百合として、毎月の支給をしばらくストップさせて頂くので、くれぐれも気を付けるようにッ』
この言葉を最後に、ルーラさんと「百合の花束」と名乗る方々は行方を眩ませた。
そして私たち自身と取り巻く環境が、更に大きく変わっていることを、この時の私たちは知る由もなかったのだった。
たぶん、続く…?