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私はヘイムの姿を見ても何も感じないと思わなければならない

 仮設テントの中に入ってきたシオンの声だが瞬時に自分の名が分からなかった。


「ほぉ、馬子にも衣裳といいますか、悪くはありませんね。予定通りに進んでいますが、これも使ってください」


 差し出された手には小さめな財布であるものの受け取るとジーナが今まで持ったことのない質量であることが中身を見ずとも分かった。


「事前に渡された財布があるのですが」


「あれは申請を無事通す程度のものです。あんなのはあっという間に無くなりますよ。幸いあなたですからこれを渡せます。バレてもあなたのせいにできますしね。あっいまのは聞かなかったことにしてください。それでこれはですね、去年使えなかった分に加えて私からの寸志です。どうにかこうにかして、使い切ってください」


 あっという間に? 事前に預かっただけでも十分すぎるほどだというのに、これまた次元の違うことを言われてジーナは沈黙していると、言い難そうにしていたシオンが続けた。


「つまりはですね、あの子を、いえヘイム様を楽しませてやってください。これが最後でしょうから」


 その言葉によって何かしらの衝撃が足元で起こりジーナの意識は生じた穴によって落ちて行こうとするも、言葉によって踏み留めさせた。


 最後って、なんだ?


「それは、違いますよ」


 驚くシオンの顔に、男は言う。


「ナギ様を楽しませるのです」


 通じたのかシオンが笑い答える。


「あなたも間違えているわ。ナギを楽しませる、いいですかジン」


 たしかにそう呼ばれはじめてその名が、しっくりと来た。私の名は、ジン。


 予定は朝早くから始まり昼頃には終了というものであり、先んじて男は指定位置に待機していると向うから馬車がやってきた。


 それからシオンらしき誰かがこちらに手を振った。すぐに分からないその誰かは緑と青の派手な衣装を身にまとい栗色の長髪であるからである。


 恐る恐る男が近づいて行くと声が聞こえ、それはシオンなのである。


「シオン様に見えませんが、どなた様でしょうか?」


「なにをとぼけたことを言っているのですか。私ですよ、私以外の誰だというのですか」


 本当にだれなんだろうとその色彩豊かな服と長髪を見ながら男は思った。


「いまは貴婦人そのものですが、考えてみると普段の格好の方が仮想衣装での人物っぽいですよね」


 憤懣やるかたないといった感じでシオンが息を吐くとその背後から笑いながら出てきた美青年に男は気付くが、そちらは見間違えること無く誰だかすぐに分かった。


「では私は誰でしょうかジンさん?」


「ハイネさんは男装しても美少年か女の子にしか見えないのがシオン様には遠く及ばないかな」


「それはそれで褒め言葉でしょうか、あっシオン様違いますよ。これは姉様がカッコいいからでありまして」


「ふざけあうのもそれぐらいにしておくのだぞ。しかしあれだなシオン。いまのそなたは実に美しいな」


 奥の方から赤い衣装に身を纏ったヘイムが現れシオンのかつらを撫でながらそういった。ハイネも同調して湛えながら髪を触って懐かしがっていた。


「ヘイム様の命令で無かったら絶対にこんな恰好なんかしませんよ」


「ハッ、こんなこといってノリノリだったくせにな。どうだ久しぶりにかつらで髪を取り戻し襟首まで絞める上着やぴったりなズボン以外の服を着た感想は?」


「良い悪いは置いときますと正直なところ女という感じを思い出しましたね」


「おう思い出すのは良いことだ。忘れぬようにな。とまぁそういうことだ、このように妾が身を隠しているのだから当然皆も仮装する必要があろうに、そうだろう、なあ?」


 後ろ向きであったヘイムが振り返ると、男にとって知らない女がそこにいた。


 幾何学風な模様の赤い衣装に包まれた女。左半身は完全に隠れ見えるのは右手に右顔、隙間から流れる銀色の髪に青黒い瞳。知っているのに知らないもの。


 男はそれが誰であるのかを認識することに心の全てが動員し、無呼吸のまま女を無言で見続ける。これはいったいだれなのだろうか?


 そんな男の内面で渦巻く混沌と崩壊など気にせずに女は話しかけてきた。


「予想通りとても似合っておるな。どうだ妾が選んだこの衣装は。目に狂いはなかったな」


「男で紫とは奇抜ですけどソグ人っぽさのない顔のジーナさんが着ると結構似合いますね。異国人の仮装としてはすごく目立ちますし」


「こちらとしてはその特徴的な色が目印になりますから尾行ともども助かりますね。はじめはどんだけ悪趣味になるのかと思いましたけど、ジーナがマイナスだからかマイナスと掛け合わさってプラスになった感があって、まっ悪くはありませんね。酷かったらいつもの軍服でやらせるつもりでしたし」


 褒めているのか貶しているのか、いや褒めていないかと複雑な批評を耳にしながら男は心が徐々に落ち着いて来て女を見る。


 いま見ているのは、ヘイムではないというものと男は考える。少しの間だけ龍身でもヘイムでもない女となるもの、それなのだと。


「ご令嬢二人から御講評を受けたがそれで妾はどうだ?」


 男はぼやけ気味だった視点がこの時確かなものになる。動いてもいないのに女が近づく意識のなかで男は胸への痛みもなく一つのことを思った、美しいと。


 そう思うと同時に女は微笑み瞳の奥に閃光を放ち、男はそこに向かって答えた。


「とくになにもありません」


「そなたに美の説明などできるはずもないし、それでよいぞ」


 そう言うと女は右手を差し出し男は導きのための左手を出し触れる。その知っている感触に温度であるのに男には違う何かを感じそれから震えた。

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