近くて遠い
音が消えた、とジーナはまず感じた。木々のせせらぎが消えたのはもちろんハイネの声も聞こえない。
辺り一面の命は死に絶えた。しかしそれはどうして? そうだとしてもハイネの唇の動きで何を言っているのかは、分かった。
聞こえなくても分かる。同じことを言っているのだから、同じ動きをしている。
聞こえるように言っているのだろう。私はいま、聞こえないようにしているのだから。だが見える。だから聞こえる。ハイネの口が開き何かを言っている。聞こえなくても、分かる。同じことを言っている。
瞼が閉じない。閉じることができれば、見なくて済むというのに。
ハイネは同じことを再三言っている。同じ顔で同じ唇の動きで。
だがジーナは途中で、思った。意識が停止しているのではないかと。時が先に進まずにここで停止し同じ時を繰り返している。自分はそのような死の中にいるのではないかと。
もしもそうであるのなら……そうではない、とジーナはその一言だけを抗うように頭の中で思い浮かべる。
そうではない、はいったい何に対しての否定なのか拒絶なのか。
死に対しての? それとも……それとも? それ以上を考えないためにかジーナはハイネの肩に手を掛け引き揚げる。
その身体は軽々しくそしてハイネの無抵抗さによって、限りなく近くに、顔の前に引き寄せた。
「龍とルーゲン師が結ばれる、そういうことだな」
遅まきながらの驚きの表情をハイネは浮かべるも、すぐに表情が変わり笑みが広がった。
それは自然であるように見えるのに不自然で、清純に見えるのに邪悪で、慈愛に満ちているように見えるのに憎悪が籠められているような、矛盾に満ち満ちておりジーナは混乱した。
さっき感じたあの美しさはいったいなにであったのかと。その違いとは?
「ヘイム様はルーゲン師と中央帰還後に結ばれます」
ジーナの言葉を無視するようにハイネは宣言を繰り返した。
「龍とルーゲン師が」
「いいえそうではありません」
ハイネは綺麗で不快な声で以て被せてきた。
「ヘイム様はルーゲン師とご婚約を済まされたのです」
「龍がルーゲン師と婚約したということは、わかった」
答えるとハイネは首をほんの微かに、振った。ひとつ言葉が無くなっていく。
「ヘイム様とルーゲン師は結ばれます」
「龍とルーゲン師は結ばれる」
またひとつ言葉が消えハイネの表情もひとつ消えていく。その憎悪の面が失われた。
「……ヘイム様は結ばれる」
「……龍は結ばれる」
首を振ることもなくハイネはジーナは見つめてきた。対するハイネの表情の変化にジーナはまた理解ができなくなる。
そこには見たこともない暗い色があった。いまハイネは私しか見ていない。
だから私の何かを見てそんな色にさせるだろうが、それはなんであるのか? と分からないままジーナは目を逸らさずにいた。
「ヘイム様はルーゲン師と御婚約を済まされました」
言葉を原形に戻しながらゆっくりとハイネは言いだした。まるで意識が停止した際のやり取りの如くに。
こう返してはいけないとジーナは自覚しながらもそれでも言わざるを得ない何かに突き動かされ、抗いのために口を開く。
何のためとは知らず。
「龍と」
「うるさい」
ハイネの唇はジーナの言葉と唇を同時に覆い被せその両方を奪い吸い取る。
今度は呼吸が止まり時が止まるも、心臓は動いているとジーナは感じた。
長いのか短いのか分からない重なり合いはハイネから離れることで終わるも、呼吸を忘れたままジーナは自分の唇を手の甲で拭うだけであった。
その行為に対してかハイネは睨み付け、また顔を近づけた。
「龍」
「しつこい」
手で払おうとするも読まれていたのか機先を制せられ手をも重ね押さえられ、言葉から手からそれから唇が重なった。
頭を動かず手は地につきやがて呼吸もハイネの口から行うなかでジーナは思った。
こんなに重なっているのに一つにはなれないのか、と。
意識が少し遠のくといつの間にかハイネの唇は離れ手も引いていた。
「自分から離れないのですね」
「私からしたのではないからな」
歯を強く噛み鳴らす音が聞こえた。ハイネはそれで震えを止めているのか顔が強張りそれは湧き出る怒りへの過程を見ながらジーナは構わず続ける。
「ひとつ思ったのだが、こんなに近づいても距離を感じるものだな」
答えるとハイネの顔は怒りから哀しみの色へとまた変わり、歪み何かを堪える震えを察したジーナはだからまた引き寄せ肩に顔を埋めさせると立ち昇る湿った香りが鼻についた。
「私はいつもハイネを傷つける」
「そうですよ」
腕を掴むその手は強く握ってきたが、痛みは感じなかった。
「そのうえ謝らない」
「悪いとは思っていないし何が罪であるのか分からないから謝れない。私はハイネを傷つけるが、それは私に近づいてくるからともいえるし」
「こうやって抱き寄せている癖によくそんなことを」




