鈍い痛みを発する思考
あの調書を読んでもいないし見てもいない、あの態度。
ここで功績を大きく一つ積んだとしたら果たしてあの眼は動くのか? 心が働き扉は開くというのか?
……自分だったらそれはありえない、とハイネは胸はどうしてか締め付けられた。
「あのルーゲン師。もしそれがそうでは無かったとしましたらあなたは両方を失ってしまうのですよね。そこは慎重に再検討なされては」
「お心遣いありがとうございます。その件についてはソグ教団とはかなり揉めましたが、もう説得は終わりました。というよりかは話合いは終わったということですね。この役目を辞めるということは僧をやめるということです、この一点張りでなんとかなりました」
言葉を失いハイネはルーゲンを見る。そこには悲壮感から来る暗さはなくかえって明るいものを感じた。
「そこまでしてあなたは」
「帰りたいのですよ、もしくは戻るのですよ僕は。中央にね」
ルーゲンは北の方に身体の向きを変えて遠い空を見た。ハイネはそのままの西の向きで頭の中で調書の内容が、読み上げられる。
父は中央の内大臣であり母はソグ人。私生児であるためにソグの僧院に母子共々預けられる。しかしこれは恥ではない。
ルーゲン師はここからの人なのだ。それは戦場で活躍し将軍にまで昇り詰めた一般兵の出自など酷ければ酷いほど箔が着くのと同じこと。
「僕のことを調べ尽くしているハイネ君の前だから言えることですけど、僕の願いはその二つですよ。拒絶され追放されたものが長い旅路の果てで元いた場所に戻り帰還を果たす。追放者としてはこれに勝る願いはどこにもありません」
『ご主人様は私達をそのうちにお呼び下さるはずだよ。とわたしはあの子によく言いきかせました。するとあの子は目を輝かせましてね……』
ハイネはルーゲンの母の疲れ切った表情と擦れ切った言葉を思い出した。ルーゲン師は父親似なのだろう、と面会の際にいつも思うと同時に母から受け継いだものはその眼の歪さとそしていま分かったのはその心なのかと。
「あなたは龍を導くものとして功績をあげ龍の婿となり、中央に戻る」
心無く呟くと笑い声が返ってきた。
「これ以上に無いまとめですね。うん、そうなるのが理想的ですよ。あまりにもね」
「けれどもあなたはそれを龍も望んでおられるという」
「僕もそれを望んでいる。ならばやるしかないのです」
「……ではジーナはいったいなにに望まれているのでしょうか?」
振り返るルーゲンの顔から笑みが消えていた。
「ルーゲン師は自分とジーナは似ていると再三強調なされました。そのあなたにはいま語られたように大きな望みを持たれているのならば、ジーナにもそれがあるはずです。けれども私には彼は何ひとつとして望んでいるようには見えない。それなのにあの巨大な使命を背負い運命の中に入っていく……おかしいです。ですから私は聞いたのです、ルーゲン師なら何か知っていることがあるのではないのかと」
「知ったとしましたらどうなさりますか? 止めにでも入るおつもりで?」
今日初めてルーゲンの声が変わったとハイネは分かった。冷たい怒りを肌に感じながらもハイネは前に出る。
「止めるかもしれません。または共有をするかもしれません」
「もしもそれが罪であったとしたら? 君もただではすみません。聞いてしまった時点でそれは共犯者となります」
地が無くなったような感覚がしたのにハイネはもう一歩足を前に出した。落ちるのだろうか? 落ちてしまうのだろうか。いいや、いい。
「それでも、私は」
「残念ながら僕だって知りません」
脱力のあまり身体が傾き危うく転びそうになるとルーゲンがハイネの肩を抑え、支えた。
「おっと危ない。その内容は知りませんが、確実にあることは分かります。ハイネ君には見えない、それだけですよ」
「ありがとうございます。けどそれはなんだか納得できないのです。私はあんなに傍にいるのに見えないって、無いってことじゃないですか」
「逆説的に近すぎたり大きすぎるものは目には入らない。距離をとったり角度を変えるとかしないと見えるものも見えなくさせる。または精神的なものも含めて、そう固定観念を排し考え方を変えてみたり、とかです。彼は彼で大きな望みを抱いている。何かは分からないけど、僕にはそう見えます。」
ジーナが望むこと……言われるままにハイネは一歩引いて考えてみるもまだ近すぎるかと感じられたのでもう一歩二歩下がり、ついでに都合よくあるちょっとした岩の上にも立ち、自らの心を究極的に無感覚にし一つ前提を置いた。絶対に考えないようにしている、この前提。
ジーナはあの人と結ばれたがっている。




