そうでなければならない
男は杯を落とし、床に砕け散るも音はすぐには鳴らなかった。
それはその砕ける音の前に何かが先に砕け散る音が鳴っていたために、音が重なりズレが広がりやがて一致する。
「おっとやってしまいましたね。新しいのを一つと掃除をお願いします。杯代は一緒に請求してください」
ルーゲンが飛び出してきた店員に慌てず対応している間にジーナは呼吸を整える。
気づいているはずがないのだから落ち着けと。
ただの偶然であり探りを入れたりするためのものではないと。いまは私の話なのだと。
「あっ気を悪くしましたか? 別に今のはそういう意味じゃないですから大丈夫です。手紙にジーナの視線が恋する乙女のようだという声もありましたと書かれていましてね。女性の方は発想を不思議な方へと遠くに飛ばしますから面白いです。そこからの連想でして。君みたいな女の人がいたら世界が滅びますハハッ」
ほら大丈夫。ルーゲン師は今の言葉の意味を分かってはいない。なら話を遠くに飛ばすためには……
「……ハイネに手紙を書こうと思います」
「本当ですか!」
身を乗り出して嬉しそうな声をあげたルーゲン師は失礼と言いすぐに座りなおしたが、喜びの表情は消えない。
「誤解を解く為という意味もありますが。私も意識して駆け引きとかやっているわけではなく、ただ女と手紙のやり取りをする習慣がないですし、書くことだってなにも」
「特に意識せずに報告書のように前線の様子を綴ればいいのですよ」
「そんなのが楽しいのでしょうかね。私はあまり楽しくはないですよ」
「それは君が実際に見ているわけですし楽しんでいる云々な状況じゃないから仕方がありません。この手紙の反応を見ると後方の皆さんは楽しんでいますよ。あれはやりすぎでしたけどね。基本的には前線で何かがあって誰かが何かをして自分はこう思ったあなたはどうです? と書きまして、ついでに戦後における二人の将来のことを語ったりしながら」
「最後のは不必要なことですよね」
「案外君は人の話をきちんと聞きますよね。ともかく龍身様への報告書とは異なり私信となりますから同じ文面にしてはいけませんよ。いつもよりも少し砕けた文面にして返信が来たら調子を合わせたりしながら調整したほうがいでしょう」
兄のようなルーゲンの態度にジーナは不審感を抱き始める。この二人の関係はなんなのであろうか? 恋人ではないし兄妹でもないし。
「どうしてハイネにそんな気を遣うのです?」
「疑問ですよね。これは単純に知り合いの婦人が困っていたら手助けしたいという人情です。君は戦場で苦しんでいる隊員がいたら可能なら手を貸しますよね? その困っている理由が自分の知り合いの男性に関してなのですから僕がこうして大々的に関与することはごく自然でしょう」
「ぐうの音も出ませんね。疑問を抱いたのが間抜けでした」
「分かってくれれば幸いです。君は頑固なのだか素直なのだかたまにわからなくなる。そこが真に君らしいと言えば君でとても好意的にみられるね。僕から見ても婦人から見てもだ……」
ルーゲン師は顔にこそ出ていないが徐々に言動が平素と違いだしそれから今のように考えだし沈黙の時が多くなってきた。
そういう酔い方だと見たジーナは言葉を急かさずに次の言葉を待った。次の一言だけを待つことにした。
不明瞭で支離滅裂な声や言葉が出たら席を立ち連れて帰る。ここが切り時であると。
なかなかの時間が過ぎ丁度良くルーゲン師も一つの目的に達しただろうから満足であろう。
その満足感からこのように緊張の糸が切れ酔いに身体が支配された可能性もある、とジーナは多くのことを考えそう言えば自分はまるで酔っていないことに気づき内心で苦笑いする。
自分は相当に緊張していたのであろうと。
「一方の僕はと言えば……まるで駄目だ」
意味不明な独り言が聞こえたためにジーナは立ち上がりルーゲンの手を取ろうとするその一秒。机の上に置かれたルーゲンの手の甲にジーナの掌が重なり掴むその直前、刹那の差でそれを成し遂げられなかった。
ジーナの手は止まる。それはルーゲンの大きさが均等になっている両目がジーナを捕え、止めていた。
「君は、愛される男だろうね」
あの夕陽の冷たい光がジーナの体内にあふれ輝き、言葉がこの時だけ甦る。
「いいえ。私は愛されない男です」
そうでなければならない。
「それは、僕のことですよ。君のことではない」




