もうそんな時か?
龍よ、とヘイムは鏡に映る龍身を見つめた。その時に自分を見つめているという意識がなかったことに衝撃を受けた。
ここの段階まで来たのか、と。龍身であると言える左半身の色は中心から右半身へとますます広がっている。
すぐには自分でもどのぐらい龍身が進んでいるのか思い出し考えないことには分からないことであった。
しかしヘイムとしては失われているという感覚は一切なかった。いや、そういう意識はこの身になってからまず無くなったのかもしれない。
自分は龍身であり、龍となるものである。もはや自分は龍なのだ、と。
このまま無私の境地で以って受入れ、いつしかこのようなことすら考えなくなることは分かり切っている。
龍となったら龍となる以前のことなど忘れてしまう。それはなにも自分だけではなく周りのものもそうである。
人々もみなここにいる自分のことを忘れる。それが龍の信仰であり正しきことなのだ。
自分は人ではなく龍となる。人であったことは失われなくてはならない。そのために人々は自分を崇め戦い、その命を捧げているのだ。
……ただ一人だけを除いて。
「ヘイム様? ちょっとヘイム? 座ったまま寝てるんじゃないわよ」
肩を叩かれたことでヘイムは自分がいつの間にか瞼を閉じたことを知り開くとそこには自分とシオンがいた。鏡を見ると龍身はそこにはいなかった。私がそこにいる。
「すまぬな。もしも自分が豆を喉に詰まらせたら、と想像したら苦しくて死んだ気持ちになってしまってな。シオンよ、良く生きておった」
「うん? そんなことありましたっけ」
「こいつ……」
ヘイムはシオンの声がお惚けでも嘘でもないことに若干怖いものを感じた。本気で忘れているのだろう。
この女の思い込みの強烈さにはときたま戦慄を覚えることもあり、それ以上触れるのは経験上やめにした。怖いし。
「もう時間か? まだ余裕はあると思うが」
「それはあなたのでしょう。私は先に行かなければならないのですから着替えるのは早めにするということですよ」
そうだったなとヘイムは立ち上がり正装に着替えるために隣の部屋へと向かった。
思えば、とヘイムはシオンの手が身体に触れるたびに自分にこうするのは最近ではシオンだけになったなと思った。
龍身の身体に触れるのは畏れ多い、というごく一般的な人々の敬心をヘイムは汲み取りごく一部の女官にそれを任せているものの、限界が近づいてきていた。
完全な龍身となりつつあるこの身に触れることができるのはこの先は誰となるのか。
「また痩せましたか? もうこれ以上は駄目ですからね。いまは細いで済みますがこれから先はガリになりますよ。それはかえってブスですからね。人に不安感を抱かせる体型というのは美しくありませんよ」
文句を言いながらシオンはヘイムの服を脱がせそれから今日の衣装を羽織らせはじめた。そうシオンは別である。
完全に二人の場合や興奮した時にはシオンは自分を昔ながらの呼び名を使うとヘイムは分かっていた。
もしかしたらシオンは無意識に使い分けているかもしれないが、それでも良かった。その瞬間だけ自分は自分であることを思い出すと。
間違いなく最後まで自分のことを覚えているのはシオンであろうとヘイムはいつも思っている。
少しずつ変わっていき自分でもその変化に気づかずにいつしかシオンは自分に向かって「龍身様」と呼ぶ日が来るだろう。
それは決定的なものとなるであろうが、その時にはもう自分の意識などこの世に塵一つ残さずに消え去り、龍の意思のもと自分は生きているのだとヘイムは想像する。
考えずとも分かり切っていることを考えながらそこに引っ掛かりがあった。だからこそ考えていた。もう一人いないのかと?
そのもう一人とはシオンよりも自分の名を覚えているもののことを。それどころかこの身が龍となっても認めないだろうと。
ヘイムは重たげに頭を振るい何かを落そうとするも落ちるはずもなかった。あのジーナという存在を。
奴は拒絶している。龍を、この世界を、理を。外からきた余所者。決して自分のことを龍と呼ばないもの。
「この紺色のは重くない色でいいですね。今日の空模様では一段と映えるでしょう」
「表彰式は別に妾のお披露目会とかじゃないぞ」
「みんなあなたのことを注視するのから一緒ですって」
自分のことか、とヘイムはそのお気楽な言葉に内心苦笑いをする。しかしそれは事実である。これから自分は龍身という存在として兵の前に立ち労いの言葉を掛けるこの儀式。
そういった場に立てば不思議なほど自分は忘我の境地に立ち龍身として振る舞えるのだが、そのままいってしまったとしたら?
もうこちらに戻らずにずっとそのままでいられたら……そうヘイムに帰らずに龍身として意識も捧げてしまえば……
「ヘイム、終わりましたよ。鏡の前で一回転して自分で見てください。くるっとしてどうぞ」
呼ばれたことによってヘイムは意識の水の中から顔を出し息を吸い、回りだした。




