あなたが言えない言葉
それでもジーナの手が動かずにいるとハイネの笑い声がし耳元で囁かれる。
「言ってくださいよ。でないと姉様に、あっシオン様ですよ、ジーナに罵倒されて泣かされましたと訴えますよ。シオン様はあなたのことを悪い男だと見ていますからね。罵倒された以上のことが起こったと拡大解釈してくれるはずですが、いいのですか?」
「面倒なことになるからやめてくれ。だけども」
その心を現す言葉を自分は言うことも思うこともできないとしたら、とジーナは思うもそれでも紙を取り出し机に置くと、筆を取る手の上にハイネの手が添えられた。
「自分で書けないのなら、私が書くか、それとも私と書くか、どちらかを選んでください」
右肩にハイネの顎が置かれたのか重さが来てそれから言葉が届くとジーナは迷わずに選んだ。
「一緒に書いてもらいたい」
肩への重みが増し手に力が籠った。動かしづらそうだがジーナはそうさせた。
「それでどうします?」
「嫌いとはどう書くんだ?」
一瞬の間ができたがハイネは何も言わずに手を動かしジーナは導かれその文字に到達する。
見覚えのないその模様と組み合わせに。
「今日はよくその言葉が出ますね」
「大事な言葉だからな。それでその反対も教えてくれ」
今度も間が生まれるもハイネは息を呑む感覚が肩越しに伝わってきた。
先ほどのよりも長い躊躇いの後に手が動き出しその言葉が書かれていく、半ば禁じられているようなその言葉が。
「はいこれがあなたが口にするのも聞くのも嫌いな言葉ですよ」
当てつけがましく言われるなかでジーナはそれが嫌いという字に似ていると感じた。
「何を書くつもりだとは聞かないのか?」
「私は言いました。あなたがなにを書こうが、それを通すと。それだけですよ。でも言いますが、まさかこれを出すつもりではありませんよね?」
その二つの異なる文字を見ながらジーナは左手を胸の部分に当てた。その静かな鼓動を手に取り、思うと同時に声が出た。
「これじゃない」
ハイネは安堵の息を吐きジーナは紙面から眼を離した。近いがこれじゃない、もっと近くに、そのままの心を伝えたい。
伝えなければならない……
「憎んでいる、と。そう私は何度もあの人に対して言ったんだ。私はあなたのことを憎んでいると」
独り言のように言うと背中にいるハイネは覆い被さり肩を手に身体を預けるようにしてきた。
「……それはこう書きます」
非難も反論もしないハイネをジーナは不思議に思いながらも重なり強く握られた手が動き始める。
はじめて形となっていく自分の心を筆先で指先で、手で腕で身体全体で、心で感じ取っていくもジーナには分かっている、限りなく近いがまだ違うと。
「これが、それですよジーナ」
一文が綴られていた。自分の字であるのにどこか他人の字のように見えるそれ。これだけを送るとしたら、それは誤りであろうしまさに誤解だとジーナは改めて感じ、その先に行くことに決めた。
「これだけではまだ遠いんだ。足りないし届かないし、見えないし伝わらない……同じ言葉を、いや全く違う言葉を、いや」
ジーナは語りながら一心に今の文章を見つめる。
『私はあなたのことを憎んでいます』
「同じ言葉を、だけれども似て非なる心を書きたい」
相反する言葉かもしれないのにジーナにはその行為への矛盾は感じられなかった。むしろそれは最も近く正しく、真実に近いとも。
「ハイネ、分かるか?」
「私に、聞くのですね」
掠れた声がしジーナは何故か知らないがたじろぐも口を閉ざさなかった。
「ハイネに聞くんだ。他の誰でもなくハイネにだけ。そうじゃないと分からない」
どうして分からないのですか? とジーナは返ってくると身構えるも見えず聞こえもしないのにハイネが笑った気がした。
「では私と書くのですね」
「そうしないと書けない。ハイネ、頼む」
「私が、書く」
今度こそハイネはくぐもった笑い声をだし堪えていた。
「失礼笑っちゃいました。でもこれはあなたにではないですよ」
「私を笑うところだとしか思えないのだが」
「あなたを笑う人なんてどこにもいやしませんよ。私は自分に対して笑ったのですよ、それだけ」
自嘲する理由をジーナは分かるはずもないためにある可能性を考えた。
「分からないとか?」
「分かっていますよあなたの心ぐらい。おかしいですか? だってこんなに近くにいるのですよ。私には聞こえますが、あなたは聞こえないとでも?」
聞こえないの? と問われジーナは瞼を閉じ耳を澄ます。遠くから鼓動が聞こえ、迫って来る。この知っている音は。
「私も聞こえる。声ではなくてハイネの心臓の鼓動だけどな」
言うと鼓動が一つ高い音をたて、すぐに元に戻った。
「その鼓動の音がなんだか分かりますか?」
心音であること以外を問うているのであろうが、そんなことは分からず
「急に高い音を立てたことは分からない」
「分からないのですか?」
「分からない」
遠くに響く規則的な鼓動を聞きながらその音がまた少しずつ高くなり、また近づいてくる予感の中で右手に熱がついた。
「つまりはですね、こういうことですよ」




