だからなに?
唇が重なったことによりハイネの言葉は生まれず呼吸も止まり命さえこの時だけは喪われなにもかもが停止する。
男が感じていたのは静寂さよりも瞼を閉じずに見つめてくるハイネの瞳だけであり、その眼が何を意味しているの
かは思考も止まっている男には分からず、ただ感じたのはそれはこちらに目を閉じさせないためのものであると。
短いのか長いのか不明な時が続くも男が離れるとハイネも首を後ろに軽く反らした。
だけどそれは避けるためのものであるというよりも反動のようなものであり、すぐに顔の位置は戻る。
まるでさっきのあれが無かったかのような微動だに変化のない表情をし、同じ角度で同じ言葉を言おうとしているのが男には分かった。
「だからやめろ」
哀願じみた声をハイネは無視して同じ笑みで唇を動かそうとする。
音はあとから、いや声にはしていないはずであるのに、どうしてか男にははっきりと聞こえ届きそうであり、さっき止めた言葉がまた追いかけ追付き、もうすっかりその心に形となって言葉によって届いてしまう前に、男はまた唇の動きを止めるため塞ぎ、今度は吸い込んだ。私はそれを聞いてはならない。
言葉を吸い込み二度とそのような言葉が出てこない様に。
男が吸い込んでいくとハイネは驚きから目を見開くも止めずに続けると、その掌と口内の中でなにかが大きな力によって弾ける震動が来てから、ハイネの力が抜けるのが伝わってきた。
けれども男はハイネの呼吸が止まり力が弱まるのに反して逆になお吸い込み呑み込みだした。
何か奪い取ろうとするがごとくに喰らうものがごとくに。するとそのうち何かが舌先に触れハイネの心底からの何かがこちらに入って来るのを感じると同時に両掌から全身に急激に力が抜け、すぐさま手と唇が離れ落ちていこうとするハイネの腰と背中にジーナは手を回し支えた。
抜け殻じみたその軽い身体であるも眼だけには意思が宿り力があった。ハイネは両手をあげ宙で揺らし振った。
このように手は空いていますよ、というアピールだろうか?
無言であるために男が分からずにいると今度は目が笑った、瞳の色が若干変わり熱と笑みが加わり、そうしてそこから生まれる光はなにかを言おうとしているのが伝わってきた。
これは聞いてはならない何かをまた告げようとしている。
意思が言葉がまた心に届く、あの言葉が来るのなら、と男は抱き寄せ唇で以ってまたハイネの中に入っていく。
あの眼が見ないために男は自らの瞼を閉じるとすると連動するようにハイネの瞼も降り始め、自分の瞼が完全に閉じるのと向うの瞼が閉じるのは一緒だとどうしてか信じられた。
そうすると闇がきて、それから男はハイネの中にいることだけを意識するだけとなった。
その熱その呼吸その臭い、鼓動によって届く存在という感覚。
そこに感じる何もかもが、そこにある存在の全てが、触れて反応する心というものが、互いに融け合って結ばれて一つになろうとしていく過程のとけていき落ちて行く感覚を……するとその融合していく闇の世界に音が届き、衝撃とともに瞼が開き光溢れる世界に男は帰還する。
ハイネは一足先にか既に瞼をあげ目を見開いていた。
手が放たれ唇が離れると互いの唇から一本の糸が垂れ架かるもすぐに消えた。まるで証拠が消えたかのように。
目を逸らすため横を向くと、机の上に積まれていた紙の山から数枚の紙が床に落ちていただけであった。
無心のまま見ているとまた一枚音もなく落ちたが、あの闇の世界では確かに音がした。
それはその陶酔の世界を破り壊すに十分な音であったのに、この光の世界では何もなさぬほどの音。
あの世界はそれほどまでに脆弱なつくりであったのだろうかと疑問に思いながら紙の山を見ていると、また一枚落ち揺れながら落下していく紙を目で追うとハイネが現れ身を屈めた。ハイネは紙を拾い机に戻す。ただそれだけの動きを男は見ていた。ハイネの表情を探していた。
だがハイネは顔をあげず背を向けたまま尋ねてきた。それを聞いたジーナ我に返ったように思う。随分と懐かしい声を聞いたな、と。
「それで、あれはいったいなんだったのですか?」
ハイネの声は冷たくさめていた。
「黙らせるため」
「はぁ、ところで私は何か言いましたっけ?」




