ハイネの足音
一際無に近い静寂なためかそれとも感覚が研ぎ澄まされていたためか、すぐにそれが何であるのかが分かり、ジーナは手紙を丁寧に手早く畳み引き出しの中へと戻した。
私はやましいことなどしていない、とまた誰に対してか不明な言い訳をしながら勉強の続きをはじめ階段を昇る足音に耳を傾けていた。
その足音のリズムは特徴的なものであり、絶対に他人であるという可能性は有り得ないというものであった。
そんなことはいつも聞くジーナにしか分からないことだが、それは踊りのように始まり足の運びはそのまま舞踏のリズムに近く、軽快に飛跳ねながら階段を駆け昇って来て、踊り場で文字通り踊るようにステップを踏む。
なにかの練習なのだろうかとジーナはいつもその音を聞きながら思い、それから徐々にこちらに近づいてくるにしたがって飛んだり跳ねたり踊ったりはしなくなりつつあり、静かに抑制的にか進みを徐々に遅くしつつあることは音で丸分かりであった。
だからジーナはこう思う、ここに来るのが憂鬱なのだろうな、と。
あの階段の登り方はそのまま精神の動きを現しているのだと。ジーナはそう判断してはいるものの、たとえあちらがそうだとしても、この足音が嫌いではなかった。
それはこの塔で唯一の音楽であるといえ、だいたいいつも規則正しく石段を鍵盤にした楽器の如く躍動から沈鬱へと表情を変え音が奏でられていた。
だがそのことをジーナは本人に直接には伝えたことは無かった。
口にしてもしも変わってしまったとしたら、少しでも変えてしまったらこの規律正しく秩序だった音が聞こえなくなる。
それを避けたいことと、それと使うことは無い秘密を握っている気分もした。時々小さな歌もここに届いてくる。
武官学校の校歌か何かは聞けないことから分からないものの、この曲も歌声も気持ちの良いものであるからできる限りの間は聞きたいと。
これは自分にしか分からないことであるとジーナはある種の恍惚のなかにいる。
この机と椅子の位置でないと聞こえず、ハイネはハイネでこの部屋にいる限りは自分のあの行為が筒抜けだということに永遠に気が付かない。
たとえ自分を否定しているであろう動きであってもそれは魂の正直さの現れであり、真実の美しさがそこにあるとジーナには感じられた。
そのままジーナはハイネの足音が大人しくなっていくのに耳を澄ませていた。
そろそろ歩調を完全に整わせ、こちらの扉に向かって歩いてくる音がよく聞こえてきた。ハイネはきっと自分の音がここまで聞かれているとは思ってはいまい。
まさかこの私がこんなに注意深く耳による観察をしているとは想像すらしていないだろう、ジーナは心中で思いながら今日初めて一つのことを思った。
他のものの足音や気配などこの塔にいるときは感じるというか聞くなんてありえないのに、どうして彼女のだけはこういつものように完全に聞こうとするのか? 苦労を持ってくるものへの警戒心か、と結論付けるもそれは自分の心に置くには座りが悪すぎるもとりあえず置き、扉に注意を傾ける。
ハイネは扉を開ける前に妙な間を置く。一呼吸に二呼吸とリラックスをさせるためにか、なんのために?
ジーナはその度に思いその度に同じことを思う。私のせいだろうが、と。
扉がノーモーションで開き出す。不作法であるのは分かっているはずなのにハイネはノックをせずに入って来る。
まるで自分の部屋の如くに我が物顔に図々しく。それは囚人の牢屋を見回りに来る看守な気分かはともかく、遠慮なく扉を開けて足を踏み入れるハイネの表情はいつも同じで笑っていないのに物凄く嬉しそうなのである。
そこにジーナはこの女の内心面の混沌を感じずにはいられずにいられなかったが、今日は先客たちによる変なハイネトークのおかげか、その表情がやけに攻撃的というか暴力的といった輝きがジーナは目に刺さって目を背けると、声が追って来た。
「進捗はいかがですジーナ?」




