龍の護衛になど絶対になりたくない
「私である理由は、やはりありません」
男は椅子から立ちあがり宣言した。
その低く大きな声が室内に響き渡ると同席の白髪頭の初老の男が溜息を吐き、長髪の優男は微笑んだ。
二人の視線を集めながらその立ったままの岩のような男は言葉を続ける。
ゆっくりと丁寧にそれはまるで祈るかのような口調で以って。
「再三に渡り申し上げますが、誰か他のものにこの役目をお任せすべきです。その理由は単純なものです。ここにいる、このこれは、そのお役目に、この世界において、最もふさわしくないものなのです。龍の護衛などという役割はとてもできはしません。この私にはできるはずがない」
またそれか、と初老の男はぼやきながら二度目の溜息を長く吐き続け、それを眺めていた長髪の男は頷き開いていた本を閉じ微笑みを絶やさずに返事をする。
「疲れましたかねジーナ君。そういうのならここで講義を一旦中断させお茶でも飲みましょう」
「あのルーゲン師。お茶はよろしいのですが、私のこの訴えについてをですね、今日こそは御検討の上で御受入れくださって貰いたく」
ジーナと呼ばれた男が言った。
「黙れジーナ。おいおいルーゲン師。まだ今日の予定のところまで到達していないというのに休憩とは感心しないぞ。ただでさえ遅れがちだというのに、こいつのこんないつものわがままに付き合ってはならん」
「まぁまぁ落ち着いてくださいバルツ将軍。ここは戦場ではなく講義室ですよ。行軍に休憩が必要なように講義にも休憩は必要です」
青年ではあるものの師と呼ばれたルーゲンは後ろに控えている僧に茶の準備を命じ、将軍と呼ばれたバルツは身体の向きを変えジーナと呼ばれた男の顔を見る。
まだ未練たらしく立っている事に対しても憤慨しながら指を差した。
「お前が何度同じことを言っても俺は何度でも同じことを命じる。いいか、お前は龍身様の護衛をこれから務めなければならない。これは命令だ」
バルツの命令にジーナは首を動かさない。
縦にも横にも振らない。するとバルツの視線は自然にジーナの左頬に目が行く。
そこにあるのは呪文みたいな模様が刻まれた深く古い傷痕。獣の爪痕にも見えるそれ。
なんらかの儀式による印だと本人から聞いているがバルツはそれを見ると、いつも不思議と気弱になり言葉に従ってしまいそうな気分になるために、視線をずらしながら言った。
「座れジーナ。座れといっているんだ座わ、っているな。うんそれでいい。そういう態度なら、良い」
一呼吸置き、バルツは全身に力を入れた。強気で攻めたら落せるかもしれないと思いつつ。
「なら、龍の護衛になれ」
「失礼ですが、抗命致します」
「おい!慇懃無礼にもほどがあるぞ!どうしてそこまで頑ななんだ!お前は如何なる命令にも今まで一度だって逆らったことなどなかっただろう!いかなる状況であっても、いかなる困難があったとしても、お前は逃げずに立ち向かいあらゆる難局を撃ち破ってきた男だろうが!数々の戦線で常に最前線で戦い続け、あのソグ山での決戦の英雄がなんだその様は!今のお前はどこの誰だ!」
「どこの誰でもなく私は変わらずにジーナです。私はジーナという存在である以外の何ものでもありません。はい。これまでの命令は不可能なことではない上に全て私でなければならない任務ばかりでありました。ですが、これはそうではありません。私はこれに選ばれてはならないものです。私であってはならないものなのです」
抑揚のない一本調子の、だが強い口調にバルツが再び怒鳴ろうとするとその目のまえに茶が置かれた。
「お茶ができましたよお二人さん。それと部屋の空気も悪いので換気をしましょう。ちょっと寒いでしょうが我慢してくださいね。それとジーナ君、今のは間違えているよ。このことに関して君は選ばれたのですからね。選ばれたという運命のもとこれを受け入れるべきです」
ルーゲンの言葉に対しジーナは瞼を閉じる。
するとそこには赤い夕陽が瞼の裏に現れる。
窓が開かれたのか冷たく乾燥した空気が部屋の中へと入ってくるのをジーナは感じた。
晩秋であり遠くから運ばれてくる冬の香りがしているというのに、ジーナの目の前には夏の夕陽があった。
故郷の陽の赤光、茜空……それを背負いここまでやって来た。
しばらくして窓が閉まる音を聞きながらジーナはそう思いつつ瞼を開き茶を口に運ぶ。
冬の訪れは近い。
三人は無言のまま座りしばらく口を開かず茶を呑む以外の動きをしないでいた。
茶で心を落ち着かせようとしているのかバルツが忙しく口と手を動かし一番に飲み終わり、二杯目が注がれ出したところでルーゲンが僧衣の袖を振るい口を開いた。
「改めてご説明しましょう。ジーナ君、龍身の護衛とは非常に名誉あるお役目です。一般的な役職名で言いますと近衛兵でありますが、それよりも立場は上です。龍の騎士のただ一人の補助役となりますからね」
この何度目かしれない説明もルーゲンは厭わず諭すようにジーナに告げ、バルツが続ける。
「この度の戦いによる活躍でついに辺境であった我々西シアフィルの民にその役目の順番が回ってきたのだ。シアフィル連合の長としての喜びはこれ以上に勝るものはないぞ」
バルツは自分の言葉に深く何度も頷きジーナがつられて頷くかと思いきや微動だにしないことに、また腹が立った。
だから次に来る言葉もバルツには分かった。
「ですが私は西の砂漠の果てから来たものでありみんなとは違いまして」
「またそれか!言うな言うな言うな。お前は何度同じことを繰り返し言うんだ。私の他の者をどうか、私には相応しくありません云々。はじめは礼儀や謙遜かと思っておったが本心から言っているのが分かった時、俺が、どれだけ、驚いたか、お前には分かるまい。いいかこの罰当たりが!龍に対してそういう態度をとることは許されんぞ!この世界は、龍によって、統治されているのだ!そうであるのだからお前がこの世界にいるのならこの秩序に従うべきであり」
興奮しだし席を立ちあがろうとするバルツをルーゲンが手で抑えまた座らせなおも仏頂面のジーナに笑顔を向ける。
「落ち着いて下さい将軍。あなたとシアフィル連合軍の龍への篤信は誰もが知っておりますが、世の中にはそうではないものもいるわけなのです。この龍の一族が治める南方ソグ地方にだって奥地の最奥に行けば龍のことなど知らぬ民族もおります。ここでそうであるのなら西方シアフィルのさらに遥か果て、砂漠の先にいるものには龍の信仰を持たないものがいてもおかしくはないでしょう。ジーナ君はそういう特異な存在なのですよ」
「そうは言うがな。この男はうちの軍では最も勇敢な戦士であり最も功績のあるものだ。だから護衛役に推薦した。というかお前以外の誰を推薦せよというのだ?他のものを選ぶというのは不正だ。俺が見ても、それ以外の誰が見てもだ。俺はそんな不公平なことはできん」
興奮は収まりつつもバルツの怒りはまだ消えず煙を上げ、その場で地団駄を踏み続けているがジーナは動揺をせずに言った。
「バルツ様。私があなたの軍に入る際に信仰について問わないと約束をしたはずです。最前線で戦うこと、信仰の強制をしない。この二つは絶対だと念押しをし、あなたは受け入れたはずです」
「言わんでも覚えている。そうだ約束をした。だがそれもいつかは目覚めると思ってな。現に俺はお前はもう信仰に目覚めていると思っている。俺達の戦い、すなわち世界の中心に真の龍を戻し秩序を回復させる……そのための戦争に身も心も捧げているということだ。俺もそうであり、お前もそうである、そのはずだ。そうであるのに何故お前はいつまでも龍への信仰を持たないと意固地に主張しているのか。そうだというのに何故に戦うというのか?俺には分からん」
小さく首を振りながら語るうちにバルツの声には哀しみの色が帯びはじめる。
しかしジーナは不動の姿勢のままであった。
「それは私の罪ではありません。その件については私の口から何度かお答えしておりますが、もう一度お答えしましょう。私は信仰に目覚めるためだとか、世界の秩序を取り戻すといったこととは無関係な存在です。ひとりの戦士としてまた傭兵としてひとつの役割のためここに来て戦っているものです」
ジーナは微笑んだ。
「龍を討つために、です」
その言葉にバルツは睨み付けるもジーナも目を逸らさずに、見る。
「あの龍ではなくなったものとこちらの龍を同列に扱うな」
「私には同じ龍にしか思えませんが」
両者は同時に立ちあがったが、その間にルーゲンが入り手を広げ、衝突を防いだ。
「落ち着きなさい。そして聞きなさい。ジーナ君の言葉は誤りであり、バルツ将軍のお言葉もまた事実とはズレております。まず中央にいるあれは堕ちたとはいえ龍のひとつであります。我々の龍もまだ中央に戻っていないことから龍ではなく、龍と人がまだ一体化していない龍身という状態。すなわち龍となるものなのです。いいですね御両人?この微妙な問題で争ってはなりません。極めてデリケートな問題なのですからね」
不満な顔をしながらもバルツは離れ頷きジーナも同じく頷き、ルーゲンは一息ついた後に宣告する。
「ジーナ君。信仰無き者。またの名を不信仰者よ。君は何が罪であるのかを、まだ知らない」
「そうだ!」
バルツが完全に賛同したことにジーナは反論しようとしたがルーゲンが抑え、畳みかける。
「君でなければならない理由は、やはりあります。それは不信仰故にです」
ルーゲンは口調を真似て言うとバルツは笑いジーナは言葉に詰まった。
「これまで君が龍に対して不信仰であっても問題視されなかったのは、延々と戦いに継ぐ戦いであったために、そこを見直すといった機会がなかったからです。ですがこれよりここソグ地方は雪が積もりしばらくは戦争が中断される絶好の機会となります」
「お待ちください。もし龍への信仰がなかったら私は追い出されてしまうとでも?」
「そんな無慈悲で愚かなことなどしません。愚かなのは我々が君に何も教えなかったことであり、また君自身が知ろうともしなかったことが無慈悲で愚かなことだったのです。我々が教え、君が学ぶ。そして君が信仰に目覚めるかどうかは……分かりません。ですが前に進むことだけが我々のできるたったひとつのその全てなのです」
ジーナの顔は曇り歪む。
その表情もバルツは初めて見るものであった。どんな苦しい戦いでも見たことがない顔……どうしてそこまで。歪んだままのジーナは問う。
「ルーゲン師は私が龍の護衛を務めたとしたら信仰に目覚めるかもしれないと本気で御思いなのですか?」
陰鬱な表情のジーナに対しルーゲンは楽天的な表情を崩さない。
「龍は偉大です。その偉大さに触れることによって君は必ずや信仰に目覚め宿るでしょう、その胸に」
ルーゲンは自らの人差し指を額に当て、それからジーナの胸の心臓の位置に触れ唱えた。
「新たなる心。いえ、もとからあることに気付かず知らないままにしていた心というものがここに宿り、暗黒に光が灯されるのです」
「残念ですが、その可能性は皆無かと予想されますね」
「僕はそうは思いませんね。ではこれで決定です。最も信仰から遠いものこそがこの役を務めるべきです。逆説的にそうあるべきです」
「なには兎も角」
同意していないジーナを無視してバルツはルーゲンに続き議論の締めに入るため手を三度叩いた。
「龍身様は我々はもとよりこの地上で最高に尊い貴人だ。傍にいるだけで感化され生まれ変わるがよい。もう難しく考えるな。お前が西の砂漠の果てから来た異人であっても、龍の信仰を持たぬ不信仰者だとしても、礼儀作法やらなにやらが最低だとしても、お前は最強の戦士であるのだから、我々の最も尊い存在の護衛を務めるべきであり、それを命じられたのだ、素直に喜び受け入れろ」
渋っ面なままであるがジーナは溜息を吐いた。バルツとルーゲンは頷いた。もう議論は終わったということの同意であった。
「……とりあえずルーゲン師よりもバルツ様のお言葉に賛同いたします。そのようなお役目だと思えば、私は頑張る所存です。組織のトップを護るための護衛。私に相応しい役割です。とりあえずそう思い込む努力を致しましょう」
「どこまでも龍の護衛というものを拒絶しおって」
「まぁいいじゃありませんか。僕はどちらでも構いませんよ。結局は同じですしね。では新しいお茶が入りましたので、全員一致の賛成ということで」
ルーゲンはコップをあげバルツもならいあげ、ジーナは最後に軽くあげてから口にした。
酷い苦味だ、とジーナは眉をしかめて茶を置き、せめてもの抵抗を試みた。
「……お名前はなんでしょうか?」
「誰の名だ?」
「その……龍となるものの名です」
バルツは顔全体をしかめた。
「なんだその悪あがきは!素直にそのまま龍身様と呼べばいいだろうが!」
「信仰に目覚めぬものが敬称を用いるのは誤りではないでしょうか?」
「こいつはどこまでも下らぬ減らず口を……」
「ルーゲン師、お名前をお教えください。信仰に目覚めるまではそれをずっと用いますので」
ジーナは問うたがルーゲンは呆然としている。二度瞬きをし、停止。
バルツとジーナはその異様な様子に顔を見合わせ、声を掛ける。
こんなルーゲン師の顔は初めて見るといったように。
「あの、どうなさいました?」
「なま……え?」
「ど忘れか?師にしては珍しいことで。えーっと龍の騎士殿がいつも呼んでいるのは、ヘイム……そうだ、ヘイム様だ。龍身様のもとのお名前はヘイム様となるな。もっともこの名はもはや誰も使わんがな」
バルツが思い出し答えるもルーゲンの顔は変わらず、無理をして笑っているように頷く。
「ああ……そうでしたね。フッ失礼。そうでした、はい……そんな感じでしたね」
はっきりとしない口調でそう言うルーゲンを見ながらジーナは言った。
「では私の任務はヘイム様の護衛ということですね」
「好きに言え。そのような誤魔化しで何になるのか俺にはさっぱり分からんがな。そういう認識で行くのならくれぐれも粗相のないようにしろよ。それとこれは龍身様であっても変わりはないが、ヘイム様は御婦人であるからな」
「えっ?そうなのですか?」
固まるバルツにルーゲンは爽やかな笑い声を出した。
「まぁまあもういいじゃないですか。性別や名前など細かいことなど。それよりも大切なことを覚えるため、では講義に戻りましょう。ジーナ君は分かっていないでしょうからここはまた一から話を。世界の秩序は龍によって担われているというお話。中央の龍が異常を起こし国が乱れた話。そして現在二つの勢力によって内乱中だという話、をです」
だがジーナは心を宙に飛ばし講義の内容を右から左へと流しているとバルツの怒声が耳の中に入ってきた。
……どうしてこうなってしまったのか?ジーナは心中にて呻いた。