ハイネ先生
一方その頃ジーナは苦しさに喘いでいた。狭いながらも中々に快適そうな塔の窓辺の一室。
隊室という集団生活にあまり慣れない彼にとっては個室というのは本来楽園であるのに、ここは空高き天に近い地獄。
机に突っ伏しながら彼は考えた……投降しようか、と。ここを抜け出すためなら。
どうしてか? それは彼の机の上に置かれた古紙の量が原因であった。そうジーナは苦しんでいた。そのあまりにも過酷なハイネの宿題に。
一週間前にジーナはバルツから抗命を理由に最小限の荷物と共にここに移された。罰とかは処せられず訓練といった必要なことは何もするなという命令であった。
バルツはこれが一番効くということを分かっていたのだろう。現にジーナは想像するに耐えがたい思いがしたが、しばらくの苦労でありここを堪え切れればと覚悟のもと塔の一室へ赴くと、そこには先客がおり目を凝らしてみればそれはハイネとキルシュであった。
「おっ隊長。ようこそ修行部屋に。しっかしすごいね! 個人受勲は受けないって駄々を捏ねるなんてさ。けどあんまりバルツ様を困らせちゃ駄目だよ」
キルシュの挨拶を聞きながら部屋を見ると何も無い部屋だと聞いたのに、机の上になにかが置かれている。置かれている? いやあれは置いている?
それに修行部屋とは? 修行もなにもそういうことはしてはいけないと。
「ようこそ修行部屋にジーナ。まさに精神と時の部屋です」
意図的に見ないようにしていたがハイネも現れ目を輝かせてこちら見てきた。
その瞳で見ないでくれとジーナはこれまでの経験から感じ取った。なにかある。なにもしないでくれ。
「掃除でもしてくれたのかな二人とも。わざわざありがとう。まぁあとは私一人に任せて二人はもう帰って」
「あれなんだと思うよ隊長?」
指差すキルシュの三白眼がいつもより大きいのが気になった。
その瞳の大きさはブリアンを見るときの大きさだろ。なにを興奮しているのだ?
やめろ、私をそんな目で見ないでくれ、と思考が不安な方へ傾けつつ、あれという方へ目をやるとそこはやはり机で、紙の山があるだけだった。
「塔の倉庫が紙置き場だったのですけどあまりに劣化した古紙がありましてね。許可をいただいてここまで持ってきました」
意味するところは分かりつつあったがジーナは分かりたくなかった。だから質問をせずに感謝を先にした。帰ってもらうために。
「ありがとうありがとう。もう今日は疲れただろうから気を付けて帰ってくれ」
「あの紙の山がなんだか分かりますか」
「ではさようなら。また来週に」
「これからの予定なのですけど」
「だからさようなうぐっ!」
会話が成立させなくして誤魔化す試みはハイネの掌がジーナの口を覆ったことで失敗に終わった。
ついでにキルシュは背中のツボを押さえて動けなくさせているようだった。
ジーナの目がハイネに見下ろされる。そこにいるハイネの顔は邪悪な陰などなく満開に咲く花のように可憐であった。怪しくだから怖い。
「私が嬉しいのですよジーナ。あなたがそこまで勉学に身を入れだしたということに」
いつものように理解できない言葉を聞きながらジーナは思った。これが罰なのだろうかと。
「良いんですよ表彰式に出なくて私はそれを支持します。その代わりにあなたが退屈しないように、時間を無駄にしないように、それと……いえそれはどうでもよくて、とにかく将来のために勉強しましょう。そっちの方が遥かに大切なことですし」
仕方がなく頷くとその屈服からジーナの苦難の旅が始まる。
「こんなにたくさんの紙に字が書けて楽しいですよねジーナ。ほら筆記用具もこんなにありますよ」
抗うことも出来たがジーナにはどうしてかそれができなかった。いつもは陰鬱そうな時がよくあるハイネなのにここに来るときはずっと浮かれて陽気そうであり、それを損ねたくなかったからなのか、ジーナには分からなかった。
私はこんなことなんてしたくはない、もう来るなと言えば済む話であるのに、それで終わる話なのに、それだけであるのに。
ハイネはいそいそとここに通い可能な限り一緒に居ようとした。
「書類関係はここでやりますので人と会う時以外はここにいますよ」
と、このありがたくない宣言のもとジーナは休む間もなく字を書き続けた。こちらが休もうとすると目敏く発見し点検しあれこれ訂正を加えに来るためにジーナは所定の休憩時間以外に休むことはできなかった。
彼女が外に出ていくときもやりきれないほどの宿題を指定してくる。
「終わらないうちは休んではいけませんよ」と言い去っていく。
廊下から響き伝わって来る足音を呆然と聞きながらジーナは思う。もしかしてこれは作戦では? 罠では? 朝から晩まで勉強漬けで頭が苦しくなることから気分転換に外に出たらそこに監視員がいて「出たということは出席することだな?」ということで捕縛され表彰式に出る羽目に陥る……そうだとしたら恐るべしバルツ将軍の罠でハイネの作戦。
だがそれは有り得ないとジーナは察した。あのハイネは本気でこの塔への引きこもり期を利用して字を覚えさせる気だと。
あの凄まじいやる気に恐ろしい体力。私が逃げ出さないと信じて疑わないよく分からない確信……だが逃げ出したい気分でいっぱいだ。
ジーナは項垂れ楽しいことを思い出そうとした。それはたまに来てくれる隊員たちでブリアン&キルシュやノイスにアルが救いであった。
その間だけは勉強をしないで済むし隊の話をしてくれる。自分がこんなに隊員の優しさに感激する人間だとは知らず、またここまで親切心を発揮してくれるとは分からなかった。
自分は何もわからない存在だとこの時も思った。人も他人も。それにハイネのことも……そこまで私の勉強を喜んでくれるのなら、とジーナは椅子を座り直し机に向かうとノックの音がし声をあげた。
今は隊員達は全員訓練中であるために来るとしたらハイネだけであって文字数が全然足りない、と恐慌を来していると呼び声がした。
「ジーナ君いますか? 僕ですルーゲンですが」