思い出せなくなってきている
宙でガラスが砕けた音がしたし二人は驚きの顔で見合わせた。時も息も止まり包み込んでくる死の感覚を破るようにヘイムは手を叩いた。
「いやーそのな、そのな、ああそうだ。おいおいなにが面白いと言うのだ、え? 想像してみろシオン。あんな男の身体から女みたいな匂いがしたらどうだ? そなたは嗅ぎたいとでも言うのか?」
強張りの反動からかシオンは壮大に噴き出し、むせた。
「ごめんなさい。そういうことだったのですね。それは私も嫌ですよ。確かに論功賞で彼は出てきてそんないい匂いを出していたら笑い出しそう」
笑うシオンにヘイムが肩を寄せ手紙を指差す。
「そうであろうそうであろう。でな妾が言いたかったのはだ、感想だ。ほらここの楽しかったですとか好きでしたとかだ。分かるか?」
なんでこんなに嬉しそうなのかとシオンは思った。
「まぁ確かにいままではなかったものですね」
「うぅん?」
この痴れ者! とシオンはもう一人の自分に頭を引っ叩かせながら大声をあげた。
「いえいえ今までの彼らしくないものですね。彼はあまり自分のこういう感情を表に出したり言葉にする男で無かったですし、意外なことを書くのだと気づきました。でもヘイム。その視点って先生みたいですよ」
シオンがそう言うとヘイムは苦笑いか照れ笑いか判別のつかない表情となり首を振った。
「そうだなこれは感化というか教化か。あれは馬鹿で礼儀知らずな無信仰者であるからな」
「そこも同意します。私達にとっての彼はここにいたままのあのちょっと抜けている頑迷固陋な西の男以外のなにものでもありませんしね。ですけれども彼はここを出れば龍の護軍最強の戦士の一人です。今回の戦いも功績があり表彰式でも筆頭でもありませんが前席に座るものです」
ヘイムは無表情で黙って聞いているがその内側から歓喜が伝わって来るのを感じ続けた。
自分が手紙を盗み読みしている可能性など考えさせてはならない。
「このまま順調に功績を積み続ければ将来には近衛兵の筆頭になるかもしれませんね」
「まさか。それは、ないであろう」
「不安要素は勿論ありますがバルツ将軍とルーゲン師もそのつもりで龍の護衛に任命したのでしょうし」
「妾は不適格であったと思うぞ。あの二人はちと目が悪いからな」
「ですが、あなたのお気に入りでしょう?」
鼻で笑いながらヘイムは立ち上がった。
「そこは否定せん。そろそろ夕方の会議であろう。用意するか。それとなシオン」
シオンは一瞬緊張するもヘイムが笑っていたためにすぐに解けた。
「シアフィル砦が、楽しみだな、とてもな」
「ええ楽しみですね」
やり過ごせたと安心するとシオンの耳の奥であのガラスが割れる音が微かに再生された。あれは前にどこかで聞いたことがある音では……ともう一度音を鳴らすとシオンは思い出した。
そういえばヘイムが子供の頃に好きな男の子がいたな、と。中央の親戚でどうしてかヘイムのことだけを嫌っていた。
その度に私が叩いて黙らせていたけど、それをあの子はあまり歓迎していなかった。ヘイムは昔からちょっと変わっていたからか、こちらから好きになるタイプでなくあっちから好かれるタイプで、逆だと下手くそでどうしようもなくて私と逆で……
どうしてっけあの男の子は? そうだ、そのあとに病死したんだ。それを聞いて喜ぶ私にあの子はものを投げて窓ガラスを割って叫んだっけ? でもなんて言ったのかは、覚えていないなと。ああ駄目だ……思い出せなくなってきている。ヘイムといる時でさえもう記憶が薄れて失なわれていく……