『名を預ける』
暗がりのなか、いつまでも晴れることない霧の中を馬車は砂漠の果てを目指してひたすらに進んでいった。
「これはもしかしてもしかしてだぞ」
アリバはまるで自分が行商に行くかのように興奮をし出していた。砂漠には様々な伝説があり、その一つにはここが砂漠になる以前は霧が発生する地帯であったという伝説である。
こんな伝説は誰一人として真剣に聞こうとも信じようともしなかったが、砂漠に最も近い村落の古老は以前にアリバ達に語った。
「オレの爺様の爺様はここいらに沼があったと言っていた。証拠に古い沼釣りの用の釣竿もある」
突然砂漠地帯となった西と東の境界線。死の砂漠地帯。荷は十分にある、来年の適期であるのなら確実に超えられるだろう。アリバと自分なら。
だがこの季節は、との懸念など霧の中でそのまま胡散霧消していっていた。馬車の速度は緩まずどこまでも進んでいく、どこまでも?
「アリバさん。もうここってもしかして」
「そのもしかしてだ!砂漠の入り口に入ったぞ」
慌てて男が馬車から顔を出すとそこは紛れもなく砂漠地帯であった。しかし霧のために辺りが暗く、こんなに視界の悪い砂漠は初めてだと思えた。
いつもの抹殺するかのような光はどこかに隠れたまま、砂がどうしてか湿り固まり馬車の車輪を快速に回転させていく。
「ちっくしょうめ! ワシがお前に代わって東に行きたいぐらいだ」
腹の底から悔しそうにしているアリバを見て男は笑った。きっとこの人の頭の中はこの馬車に商品を積んでいたらいくら儲けたのか? と皮算用がはじまっているに違いない。
「それにしてもなんだこのタイミングは? 昨日まではいつも通りだったのに昨晩から突然霧がくるなんてな。ひょっとしてお前のためか? なぁお前の旅立ちのためだろうな!」
アリバは男の左頬を見ながら叫んだ。
印の力が? そんなとてつもない力があるというのか? だが男には印からは何も感じることは無かった。
そうなるとこれは東のなにかがこちらの動きを察知し呼応しているのでは? 誰かが呼んでいるとでも? 馬車は入り口付近を悠々と踏破しその先へ、あの岩の付近へと。
「アリバさん、ここで止めてください」
「あっそうか、そうだったな」
何をしに来たのか半分以上忘れていたアリバが慌てて馬車を止めると後続から来る馬車を待つことにした。
「速度を出し過ぎたなガハハッ。いやチャンスだと思ってついな」
どんなチャンスなんだよと思いながら男は目的のものを見た。霧で濡れ黒くなったジュシ岩とその下にあるしゃれこうべを。
男はナイフを手にし岩へと近づき小さな線を一筋刻む。
「岩よジュシ岩よ。お前にこの名を預ける。俺が返ってくるまでにだ」
「ガハハッ儀式か?それだったらそこのしゃれこうべに預けた方がいいんじゃないのか?」
しゃれこうべは濡れても白さを維持しまるで死して永遠さを現しているように見えた。
「縁起が悪いというのか? でもそいつはここまで独力で来たんだぞ。お前は帰ってくるときにせめてここまではどうしても来い。定期的に見回りに来てやる」
男が驚いてアリバを見返すとその手にしゃれこうべが握られていた。
「骸骨が二体となったら、ああお前が来たんだなと分かるからそれでいいだろう。干物状態でもいいぞ。水をかけてやる。まっ綺麗な死体のままならなおいいがな。そうしろ」
「ハハッ生きて帰って来るということは考えないのですか?」
「帰って来るから、こう言ってんだぞ。そうだろ」
男はアリバを見上げた。身長は自分よりも低いというのにアリバがとてつもなく大きく見えそれが腕を広げた。
「帰ってこいよ兄弟」
その腕の中に吸い込まれながら男は言った。
「名を名付けてくれてありがとうございました」
「そこを礼するのか。それで今はわしはお前を何と呼べばいいんだ?」
「俺はあなたの前ではいつだってその名のものです」
後続の馬車がやってくる。早く、急かすように車輪の音を立てていると男には聞こえた。
「そうか分かった。では行って来いジュシ。使命を果たしたあとの人生があるということを忘れるなよ」