『龍を討たずに死なない』
シムは安堵感を覚えのか深く頷いた。
「そうだな。そんなわけないよな。あんたとジーナ様が毎夕にやってなさるあれにジーナ様を救う何かがあるはずだ。私は何度も何度も申し上げたんだ。何故そのようなことに全力を尽くすのかと。もっと違うことをなさって身体を回復させてはどうだと。そうしたらジーナ様はその度にこうお答えになるんだ。これは儀式だと。最も大切なことなのだと」
その儀式はこれから締めくくりに入り、終わる。ツィロが訪れ砂馬の馬車に乗り砂漠へと向かう。そうジーナは旅立つのだ。
だがしかし男には自分達の過去からの物語がどうして必要であるのか分からなかった。これが儀式であることも分からなかった。それでも男は前に出た。
「シム。ジーナのもとへ行くよ。伝えてくれてありがとう。さぞかし辛かったろうな」
返事の代わりとして手が強く握られそれから離れ、シムは霧の中を去っていった。
男は改めて薬房を見渡す。霧のせいで一際陰気さが増しそこには希望は無く、あるのは絶望という感情が相応しいように見えた。
扉は物悲しい音を鳴らしながら開き、果てが見えにくくなっている暗い廊下はいつもと同じ暗さで今日もこちらを迎え入れる。
仔細に見ると、意識して見れば、ここには濃厚な死の雰囲気しかなかったなと男は感じた。
それは今日からそうなのではなく、はじめからそうであったと。そのはじめとはあの日、女がここに運ばれてきた時から。
そこから死が始まっていたとすれば、どうして自分はそこに今まで気が付かなかったのか。
男は自分の心を思い出す。そうだ思い出せ。いまこの瞬間の心をこれから話すのだから。
流れ去った意識を探りながら男は廊下の奥につき左の扉の前に立った。いつもなら、と男は昨日までの心を思い出しながら扉に手を掛けた。
開くとそこは真っ暗な闇が……違う嘘を吐くな。そんなことは思わない。思うはずもない。
思うことは一つ、たった一つ、彼女の存在を感じるかどうかしかなかった。そうであるから今も、と男は扉開くと闇の向こうで女がこちらを振り向くのが、分かった。
これだ、と男はその意識を手に掴んだ。
これしかなかった。男はシムの話すらも遠くに飛ばし、今ある心地に浸っていた。
「今日は霧だね。濡れているけれど本は大丈夫かな?」
「本は大丈夫だけど、俺の心配はしてくれないのか」
「君は濡れたって問題ないだろ」
ただ存在し話ができることを、自分は望んでいたのだと。そうであるのならここが闇の世界であっても死の空間であっても罪深きものが落ちる奈落だとしても、構わなかった。
「じゃあ、いまを目指して始めようか」
男が座り筆を執ると女が言った。
「僕は山を降りた」
「俺は山を登った」
言葉は同時に放たれ闇の中で重なり交わるため語られる。
「僕たちは」
「俺達は」
「再会した」
物語が始まり、交わっていく。