『嘘をつくな』
昨晩から延々と続く雨は季節外れな霧雨へと変わり辺りは霧で覆い尽くされていた。
「こんなことはかつて無かったな。いったいどうして」
アリバの独り言に男も不満げに鼻を鳴らす。せっかくのめでたい日がこんな天気だとはと。仕方がないと男は物語を清書し今までの分をまとめて袋に入れ出した。
何冊もあるこの女の語り。自分のは一冊未満であるので改めて女が貯め込んでいた言葉というものに感嘆しながら、今一度袋に整え入れ仕事をし夕方の時を待った。約束の時を。
その時となってもしつこい霧のせいで時の間隔が分かりづらく夕陽が見られない。こんな日は初めてであった。女がこちらに来てから今までなかった。
アリバは時の間隔が正確であり時刻をピタリと言い当てることすらできるために迷っている男に告げた。
「おいもう少しでいつもの時間だぞ。待たせてはいかんから早く行け」
急かされ男は霧に濡れながら薬房へと向かい出した。そうするといつもならシムが交代であるので出て来るのだが扉からは出ては来なかった。もう出ており、立っていた。
彼女は途中の道の真ん中にいた。霧に濡れるのをお構いなく立っているが男は目が合った途端に言葉を間違えていると分かった。
シムは立っているのではなく待っていたのだ、この自分を。その待ち構えていた不吉なるものの口が開いた。
「――」
シムはかつての名を呼んだために男は言葉を失った。ここで呼ぶのかと。異常なこと起ころうとしているのだと悟った。
「なにかあるのかシム」
「……ジーナ様はもう目が見えないんだ」
男は足元が崩れ落ちて行く感覚に陥った。落下に逆らうために嘘だと叫ぼうとするとシムが言葉で以ってその口を塞ぐ。
「見えているように思えるのは、印の力でなんとか見ようとしているんだ。だからたまになんでという時に微かに光っているだろ?」
心あたりがあるために否定できずにいるとシムがまた一歩近づいてきた。追い詰めにくる。
「身体も毒に侵されもうどうしようもない状態だ。生きているのが奇跡というか印の力で持ちこたえているといったところなんだ」
「嘘を吐くな」
言い返せば、否定すれば、救われると男は思った。幻を払うように手を払うもシムはそこにいるまま。
「あんなに元気に俺と話しているんだぞ。それなのにそんな状態だなんて信じられるか」
なら怒鳴れば、激昂すれば、シムから今のは全部嘘だと言わせればそうなるのだと男は信じようとするも、シムは全く動ぜずに同じ口調で告げる。
「あんたと会話をする時だけ印の力を使っているんだ。その他の時間はあの御方は全部眠っていらして……私は毎朝そのまま目覚めないのかと心配で心配で」
語れば語るほどシムの表情は崩れていき霧雨と涙の区別がつかなくなっていく。やめろと男は思った。それが本当のことだと信じさせるなと。そんなわけがないんだ。
「ジーナは今日旅立つんだぞ。だからそんな状態であるわけがないんだ」
「わたしもそれを知っているんだ。ジーナ様は歩くことすらできないのにどうして旅立つというのかを……ひょっとして旅立つというのは……そのまま御眠りになる日で」
衝動的に出ようとした「違う」との言葉を男は自ら呑み込みながらシムに近づき手を取った。
自分は大声を出さなくていい。そんな必要はない。そうだ何も心配はいらない。
「泣かなくていいんだよ。大丈夫だ」
シムは泣きっ面をあげて男を見た。男の顔は自信に満ち溢れていた。
「ジーナは死なない。龍を討たずに死なない。そうだろシム」