『明日はいまに到達する』
紡がれていく物語は印の件から儀式へとそれから夕陽の時へと移っていった。
「ここからは別々に話を聞かせ合おうか。僕は僕を物語り、君は君を物語る」
共同で語り紡いできた二人の物語は分離し男は下山後の話を女は山に残る話をし出した。
そこで男はようやく気づき始めた。自分たちはどれだけ長い間傍に居続けたのだろうかと。
自覚するのにはあまりにも共に居続け別れてからもそれを意識することは無かった。何故なら男は毎晩のように夕陽の時を思い返してはその声を思い出していたため、傍にいると勘違いしてしまうほどであったから。
「そうか、山の下はもとより東はそういう世界なのか」
と女は男の話を興味深く聞いていた。見たことのない新しく違う世界の話を。
一方で男は女の話を自分を抑えつけながら聞いていた。見ることのなかった元の世界の話を。
「ジーナとなったからには婚姻関係は限られていたからね。誰にするかは迷いはしなかったよ。僕にはツィロしかいなかった」
時間が回転しその世界の物語を男は手を止めることなく書き写していく。もしも自分がそこに居たらという雑念を隅に置きながら、彼は知っていく。故郷のその後を。
女の物語は驚くほど詳細に語られ男は時々尋ねた。
「よくここまで覚えているものだな。なにかメモでも持っているのか?」
「持ってはいないよ。ただ君が来るまで頭の中で整理しておくんだ。時間はいくらでもあるのだからこんなこと簡単だよ」
他にすることは? と思うも男は最近知りつつあることがあった。この部屋の窓は一日のうち朝しか開けられた形跡がないと。
シムが朝に開け換気をしこちらが仕事をし出す時間のころには完全に閉めていることを。
ということは彼女は一日のうちの大半をこの闇の中で過ごしていることになる。その間に自分の記憶を整理整頓しているのだろうか?
それにしてもどうしてこんなことをしているのか? 何が目的で? 退屈しのぎ? それにしては力を入れ過ぎている。まるで人生の全てがここにあるかのように。
「どうしたんだい? 手がまた動かなくなったの?」
「いや手は動く。ただ少し疲れただけでな。ところで毎日元気に話をしているから聞かなかったけど、体調は良くなっているのか?」
「君は僕が毒魔に侵されて今にも死にそうな半死体にでも見えるのかい?」
「暗くて見えないけど、まさか。いまにもそのベットから起き上がってさぁ龍を討ちに砂漠を越えに行こう、と言いそうだけど」
「そうなんだフッフッフッフッ」
いつもの笑い声であるのにそこには歪みがあった。その歪みから何かが落ちそうで、男は耳を澄ませて聞いていた。
「ああ死にそうだよ。おお苦しい。ねぇ助けてフッフッフッフッ」
助けて。軽口ではない言葉が歪みから零れるのを男は拾い取った瞬間に立ち上がり闇へと向かった。
「――!」
「来ないで」
嘆願を無視して男は闇の中へ足を踏み入れるがすぐそこにあるはずのベットまで見えず辿り着けずただ歩くばかりであった。闇のなか何処にもたどり着けない。
「お願いだ下がって。印の力だから君は僕のもとには来れないよ」
男は大人しく引き下がり闇に背を向けるとすぐ目の前に蝋燭の灯に照らされた机があった。
距離といい時間といい感覚を狂わせる印の力に男は感心をするも、そこまでする必要にも首を捻りながら座った。
「あのな、俺は――がどんな顔色だって気にしないんだが」
「君は気にしないが僕はするの。そうやって自分中心に相手の心を考えるのは、やめてよね」
「また同じお説教か。ならそういうことは冗談でも言うな。お前は治療中の身なんだからな。今日だって俺が擦って煎じた薬草を呑んだだろ? そういうことをしているのにあんなことを言って」
「ごめんね」
あれ? と男は意表を突かれた。まさかそんな台詞を言うだなんて。感謝も謝罪も俺に対してはまず言わないのに。
どうして今日に限って弱音の演技も含めてそんなことを言うのか……
「でも心配はいらないよ」
女が声をあげて行った。
「ジーナは死なない。いやジーナは死なせない! だっけねフッフッフッ」
声色を変えて女があの夜の男の台詞を言うと男は恥ずかしさを覚えた。
「こう聞くとなんか照れるな」
「どうしてさ。すごくカッコよかったよ。カッコよくてハハッ死にそ。今ここに僕がこうして生きて話せるのも、君のあの時の叫びのおかげだといっても過言じゃないよね」
今度は皮肉交じりとはいえ褒め始めたとかつてない女の態度に男の頭は混乱しだしたが、そういえばもう物語は。
「ついに明日はあの日になるな。進み具合によっては今日になるが」
「物語は明日のその瞬間にまで到達するだろうね。物語が、記憶と意識がいまが接続されるんだ」
「そうしたら、終わりということだな。なんなら明後日の話でもするか?」
「それはいいね。過去の話をし尽して未来の話をする。それだよ僕がしたかったことは。お互いに語り尽して交わり合う。いまきみは僕の物語を知り、僕は君の物語を知った。この世でただひとつの関係だ。そうだろ。これが僕たちのあるべき姿だったんだ。別れたけどひとつになる」
恍惚として語りだした女に男は腰をあげて闇を見る。相変わらずの闇、だがそれでも女の形は薄らと見えた気がした。
明日になればこの闇は晴れるのだろうか?