『生きるために必要なもの』
思った通り女の笑い声が聞こえ男も一緒に笑いだした。
「うわあ言ったよ。なにその言葉。凄いね。山の下の世界ってよっぽど軽薄で退廃的なんだろうなぁ。あんな君がこんな台詞を覚えさせるだなんて。会う女全員にそんなこと言っているんだろ? 挨拶?」
「この町でそんなことを会う女ごとに言っていたら掴まるだろ」
「僕に言ったら捕まらないの?」
「捕まらないよ。山に残っていたら言っていたのだろうし」
「それは無いな。君はあのままいたら言わなかった」
言葉が耳を刺し否定や反論といったそれ以上ものを許さなかった。
「こうやって見るといまの君はあの頃のとは全然違うものがあるね。頑なに変わらないところもあるけれど、大きく変わったところもある」
褒め言葉なのかよく分からないながらも男も呪縛が解けたように指摘する。
「そっちも大きく変わったけど変わらないところもあるな。その話し方とか。アリバさんとか村のみんなの前だと僕でなく私と言って重々しい口調だったのに、俺の前だと昔のまんまで」
「そりゃ君の前でしか使わないよ。それとも私と言った方が良いの?たとえば……私としてはもうずっとこの話し方だからこちらの方が良いと言えばいいのだけれど」
女の口調が改まると男の心は拒絶反応を起こした。
「俺はそんな口調の人を知らない。なんだから落ちつかないな」
「嫌だ?」
女は聞き男は答える。
「嫌だ」
見えずとも男は女の顔が微笑んだと感じた。
「じゃあ変わらないであげる。いまの僕が君にできることなんてそれぐらいしかないからね」
「それを言うのなら俺もお前に出来ることなんて何も無いよ。こうやって取りとめの無い話を延々とするだけだなんて」
「僕と話をする、とてもとても大事なことだよ」
「どこかだ」
吐き捨てた瞬間に男の口内は苦いもので溢れ女のいる方へ目を向けると、二つの金色の光が闇の中で浮かぶのが見え、射すくめられた。
「それのみが僕が生きるために必要なものだと言ったらどうする?」
どういうことだと男は聞けずに無意識に首が頷き同意をする。この女を救えるのならなんでもすると。
「君はこれから毎日今日と同じ夕方の時刻にここにきて僕と話をする。その内容は……思い出話をしよう。僕と君の始まりからあの日の分岐からは交互に語り、そして今のこのここへと辿り着く。それで完成品をツィロに読ませるんだ。とても面白いだろ?」
何が面白いのかさっぱり分からないものの断る理由もなく男はまた頷くと金色の光りは消え口が利けるようになった。
「必要なことならもちろん付き合うが、どんな意義があるのか全く不明だな」
「気がまぎれるだろう。ああ毒に蝕まれた身体が痛くて辛いなぁ苦しいなぁ」
切なそうな声を出すが演技臭さがむせるほど鼻についてついでに羞恥心を起こさせるほどであった。
「なんだかきちんと話しもできるし結構元気なんじゃないのか?」
「元気なのは君と話しをして気分が良くなっているからだよ」
女が言葉を切ると男の胸底から温かいものがこみ上げ全身に染み渡るような何かを感じていたが、男は浸ることなくそれも耐えた。
何故なら男には闇のカーテンの中で女が嘲りの表情でこちらを見ていることが察せられたからである。
「そう言えば俺が内心喜んで要望にお応えすると踏んでいるんだろ」
「そうだよ。けど事実いま嬉しかったでしょ?」
「……違う」
「嘘つき。まぁいいや。君は一緒に居られて嬉しいな、とか言う男じゃないからね。じゃあそういうことだから明日から記録用の紙と書きものを用意しておいてくれ」
返事をし男は立ち上がり扉のある方へと向かうと背中に言葉が一方的に飛んでくる。
「そうそう後半に備えて頭の中で下の世界で付き合った女の整理をきちんとするんだよ。あとでそう言えば彼女もいたなとか言っても追加とかできないからね」
嘲笑による明らかな挑発に反応しても怒っても駄目だと判断した男は二度深呼吸をしそれから答えた。
振り返らずに顔を想像し……えらく憎たらしい顔しか想像はできなかったが。
「そうする。ではまた明日」
「また明日ね」
廊下は薄暗いまま愛想もなしに来客に見送っているようでいて、もうこんな夜なのにどうして蝋燭に火を入れないのか男には不可解であった。
シムはそういうことがしっかりしているのが取り柄であるのに。長い廊下の始まりであり終わりでもある扉に手を掛け開くと、馴染みある夕陽が男の身体を土色の赤に染めた。
男にはこの夕陽の色の加減で今がどの時間であるのかは分かる。入ってからまだ半刻以内でありそれは体感時間とかけ離れていた。
赤い夕陽に男は呆然とし遠くからシムが桶を手にこちらに向かっているのが見えた。まだ夕飯の時間ですらない。