『俺が殺した』
斬られている龍の悲鳴は聞こえず、また女の声も聞こえない。動いていない。
すべては凄まじい勢いで流れているはずなのに、男の耳には無音でありまた眼前の光景は一切が停止しあたかも一枚の絵のようにそれらの一瞬がその目に焼き付けられる。
男はその流れの中へと落ちていくのに抗うように雄叫びをあげ無音を砕き跳びあがりその止った世界を突き破り、女を噛む龍へと向かい左顔を、その眼を斬る。
男の存在を認め驚いているかのような龍は呻き声を出すも女を口からまだ離さぬまま見えぬものを手で払おうとするも、男は回避し禍々しい輝きを放つ爪がある左手の斬り、今度こそ龍は悲鳴をあげた。
女が口から離れ落ち男も先んじて地へと降り駆けていくその刹那、龍の脚を斬り三度の剣撃で以って地に伏せさせる。
落下してくる女を追いかけると、印の力か辺りの空間を歪めながら落下速度を制限させていると見た男の頭は不吉なものがよぎった。
これはあの時と同じことでは? 急いで落下点に入り、腕を広げ女を受け止める、その軽いこと。自分が知っている女の重さではなかった。
なにかが抜け落ちているような重さ、軽さ……それは……それは……足元が崩れてしまいそうな恐怖のなか、龍が立ち上がり逃げ出そうとする背中を男は眼に入れた。
脚が斬られさっきのような速さでは駆けられないものの、それでも男が駆けなければ追いつけない速度でこの場から遠ざかろうと必死になっている。
女に斬られた龍は地に伏せたまま動かず、こちらを睨み、構えている。自ら壁になりあの龍を逃げようとしているのか。
『龍を追いかけろ』
男の頭の中で声がする。それが誰の声であるのかは、男には分かった。
『ジーナを置いて戦い追え』
もう一つの声も頭の中で響く。それはいま、ここで、声が起こっているのではなく耳の奥にある残響、心に刻まれた未だ血塗られた傷跡から出た音。
『僕を早く降ろせ』
今度は女の声も聞こえた。だがそれは想像上の、絶対にそう言うと分かっているからこそ聞こえる空耳。
父も兄もこの義妹も同じことを言う。それがジーナとジーナに仕えるものの言葉だと男は知っていた。
だからこそ父と兄の声にあの時は従った。龍を追い、討った。ジーナの命令だから、討てた。
二人の命を引きかえに、龍を討つ使命に殉ずる栄光に包まれ天へと旅立った。男は自分はそれに続く者だと自負していた。自らの精神には父と兄と同じ血が流れている。
選ばれなかった父も誰よりもジーナの右腕として戦い抜いた兄と自分は同じなのだと。だからそのような瞬間が訪れたら、自分は同じことを言い、あの時と同じようなこととなったら、自分は二度目に続いて三度目も必ず行うと誓っていた。
龍の背中がまだ見える今から追いかければ、まず追付ける。いや追付けるもなにも、追わなくてはならない。黒き龍を討ち、紫の龍を討つ。
その両腕に乗るものを捨て置き、駆ければ。こんなに軽いものを……失いつつあるものを。
『追え!』
血が叫んだ。男の腕から力が抜け女が地に転がり落ちそうになっていくなかで、顔が目の下に現れその血塗れの表情の中で口元だけが男の眼に入った。
女の口は笑っていた。そういう形に男には、見えた。微笑んでいるだろう喜んでいるのだろう、それがジーナというものであり、自らの命より使命に優先させるものであり、きっとあの時の父と兄と同じ顔をしているのだろう。
自分が龍を追ったことに二人も笑っていたはずだと。このような表情で……
「駄目だ」
男は言いその腕に力を入れ女を抱き戻した。
「駄目だ!」
同じ言葉を叫び、歯を食いしばりながら頭の中で鳴る声に抗い否定し拒絶した。
「――を死なせてはならない!」
龍は東を目指し男は西を目指して駆け出した。
闇の中を男は自分の足音だけを響かせながら西へ村へ疾走する。腕の中の命が次第に萎んでいくのを感じ男はもしも死んだら、と考えると答えた。
「俺が殺した」
男は心の声を世界に向かって言う。
「俺が願い、殺そうとしている」