『印が欲しい』
激しき月光である今宵、あまりにも多くのものが動き出していると男は思いながら女と同じ方向に顔を向ける。
「……匂うね。これはもうあの龍が来るな。こちらの様子を伺っていたようだが、近づいてきている。正面突破を狙ってくる」
女はそう言うものの男にはその気配も匂いは感じられなかった。
「今までにない新種の毒龍だ。眷属の毒でさえうちの村の薬学では対応しきれていない。こううなると本体の龍の毒は計り知れない」
男は足を前に出そうとすると女の叱責が飛んできた。
「前に出るのはジーナだ。だから君はサポートとして後ろに立て。君が認めず呼ばなくても、この掟は守ってもらう、いや守らせる」
男は思わず女を見上げた。背の高さは男の方がずっと高いのに見上げる。男は前に出した足を一歩戻らせた。
「それに大丈夫だ。印の力は毒を通さず浄化させる。それは君がよく知っているだろ」
女が代わって前に出ると男はその背中に尋ねた。
「ひとつ教えてくれ。さっきの話の一部は、嘘なんだろ?」
「嘘じゃない。僕は願ったよ、願ったんだ。だから叶った、それだけだ」
「だがその名になりたいと思ったことは」
「しつこい。過去に囚われた死体となるのなら、もう喋るな」
男は反射的に瞼を閉じもっと暗い闇を見ようとした。今よりも暗い所へ彼女の心よりも深い闇へ。
すると森が鳴き出した。木々が砕ける音が地鳴りと共にこちらに向かってくる。女の背中は瞬間混乱の動きを感じさせ、男は叫んだ。
「あれが毒龍なのか!」
「違う! 三頭目だ!」
もう一段重ねられた変事に男が呆けると女が呼んだ。
「落ち着け。三頭がどうした! 有り得ないはずの二頭同時が出たのならこうなってもおかしくはないだろ。合図を出すから、一緒に行くよ」
男は指示に従い剣に手を掛け構え、その合図を待った。
言葉に従うことによってこんな状況であるのに男は頭の中で過去の記憶が廻り出す。
二人で三人でいるときの合図はいつも自分が出していた、だが時々、何かの拍子で緊急事態に陥った時に、真っ先に指示を出すのは自分ではなく、彼女であったと。
今のその声はあの時とまるで変わりなく自分の動きも変わりはなかった。
手前の森が動き龍が姿を現した。それはよく見る黒い龍であり、新種の毒龍には到底見えないものであった。
一直線にこちらに向かって駆けて来るその龍、いまだと男が思うと同時に女が言葉を発しながら地を蹴った。
「――」
合図とは自分の名であり、久しく呼ばれなかった命であり、合図に導かれるように――も駈けた。
前方より女がその緑の瞳から金色の光りを辺りに眩かし、印に熱がこもっているのだと後ろから分かるぐらいに空間を歪め、そのなかへ翼が生えたかのように跳び、翔んだ
龍は光の呪縛によって動けず女が振り下ろす剣による数度の攻撃の間に、その光景を目の当たりにしながら遅れて跳ぶ男の心は一つだった。
それはいつもの呪いであった。自分があの印に選ばれていたら、あの彼女も、自らの名も命も失わずに済んだのに。
この手にあの印があれば、男は自らの手の無傷を恨みながら呪詛で心を満たし違う存在になった女を思う。
印もあの娘も、失いたくなかった……いや違う。ひとつだけだ。
女の剣がまたもう一度龍の顔を斬り、一時的に光が消えた。
思うことはそのひとつ……印が欲しい。
男がそう願うと同時に右の森から別の龍が口を開いて現れ、女をジーナをその口と牙で以って噛み喰らいついた。