体温しか知らない
「案外物覚えが良いのですね」
「相当に悪いと思うのだが」
ハイネは感心した声をあげたがジーナの手元には中央の字によって真っ黒になった木版があった。
「期待値というものがありましてね」
「もう少し高めに設定しても良いと思うけれど、ところでこうもうちょっと書きやすいものでお願いしたいのだが。せっかく古紙があるのだからさ」
「これは別に紙類が不足ということではありません。うちの地方に伝わる勉強方法です。紙にはきちんと値段があるのですから、このような反復勉強で使い潰して消耗していいものではありません。なので、はい、これで」
ハイネは削り用ナイフとやすりをジーナに渡し微笑んだ。
「削って真新しくするのです。こうすればこれは辛いから頑張って覚えようと一字一字無駄にせずに書こうという意識が生まれますよね。勉強はこの精神が大切なのですよ。まぁ時間はたくさんありますから慌てずに行きましょう」
よりによってこんな厄介な勉強方法の信望者が先生とは、と溜息をつきながら削りに入りながらジーナは思う。自分の仕事は?
「あのハイネ。仕事は?」
「もう殆ど終わりましたが。そうやって私の仕事を気にするところを見ると勉強がお辛いようですね」
「そういうことじゃなくていつもたくさんの書類仕事をしているから今日はどうしたのかなと」
「ですから終わらせました。ああいうのはですね沢山あっても一日分に分けてやっているのであって、それを早めに終わらせても疲れるだけですからそうしているのです。要領をつかめばあっという間に終わるものです。そもそもあなたが私の仕事を増やしているのにそういうことを気になさるのはおかしくありません?」
えっそれは、とジーナは顔を上げるとハイネの目が輝き愉快そうに笑い視線が合った。
「冗談ですよ。けどそのことを気にしなくていいですからね。これはシオン様から許可された重要任務ですから。そうでもなければこんなことしませんよ」
「たしかにそこは二人に感謝している」
ハイネはその言葉に痺れたように無言であったがジーナはその姿を見ずに手元の作業に戻り独り言を漏らした。
「私も中央の字をいつかは習おうと考えていたが、ついにずっとできずに諦めていたからな」
小声ではあったがハイネはそれを聞き漏らすことはなく捕え、黙った。
言葉を発しなければ続きが来ると。そして続く言葉は沈黙の中で、咲いた。
「昔から私は砂漠の先に移住しようとも考えていたんだ」
ハイネにとって福音のごとき言葉が聞こえたからにはもう辛抱できずに尋ね、引っ張った。こちらの方へ。
「ジーナは中央付近に移住しようと思っていたのですか。それはとてもいい考えですよ」
「私はあの頃はいい考えだと思っていた」
「あの頃は、ではなく今もいい考えですよ。あの西の砂漠前の町は良いところじゃないですか」
「ハイネもそう思うのか。それは同意するけれど良いに越したことはないが私はどうしても西から故郷から出なくてはいけなくなってね、出来るだけ遠くへ、ということで東を目指そうとしたわけだ。今じゃもっと東どころか東南へと行き過ぎてしまった感はあるけど」
自嘲気味に笑うとハイネも笑いだし不図ジーナは気づいた。
「ハイネは、その私の故郷の話とかを聞いてはこないけど、それは意識してのことで?」
「わかります? そう意識はしていますね。ジーナって自分のことは全然話そうとしないじゃないですか。ほとんどの男の人は私と会話するとき故郷の話とかをたくさん聞かせてくれますよ。自分がどれだけ強くて勇敢だとか自分の血が青いか実家が大きいとかお祭りのこととか。私はそれをいつも微笑みながら聞いていますからそれで私は各地の風習とか男女の気質について耳学問ですが中々に詳しいですよ。ですけれど」
一度言葉を切るとジーナは木版を削り終えた右手を机の上に置くとハイネが左手を乗せてた。その手の甲にはハイネがよく知る体温があり、そして思う。自分はこの男については体温のこと以上に詳しく知っていることは無いのでは。