『その命は駄目だ』
もうあれから三年が経とうとしているのか、と夜明け前の寝床のなかでジュシは毎朝変わらぬことを思いながら闇に向かい思い続ける。
追放をされてからの自分のこの数年を思い出すも、結局は結論は同じである。自分は何も変わらなかった、と。
名を変え言葉を変え役目も変え果てしなく遠くまで旅を繰り返してたとしても、ここにいる見習い商人のジュシは結局のところあの山の宣告から何ひとつとして変わらない呪われた身。
後継者となれずにそのことを認められないという呪身。そこから一歩も変わらず進んではいない。
たとえこの地方の言葉や東の言葉のみを喋ったとしても、この内心の声は故郷の言葉であり努力をしてもそれは変えられなかった。
あれが正統後継者にならなかったら……とジュシはいつものこの最も惨めで情けなくなる悔恨の部分に入る。精神的な自涜である。
印の継承者が自分か他人であったら、それが一番良かったのに、よりによってあれが選ばれ俺は追放となった。
自ら選んだ追放だが、それでは自分はいったい何になれたというのだ? こうして数年間そうではないものを目指し生きてきたけれど何の変化もないとしたら、俺はいったいどうすればいいのだろうか?
この身はもはや余生であり、このまま生涯を後悔の中で生きるか、それとも悔い改め山に戻るべきなのか、それともなおも可能性を信じて新たに生まれ変わるべきなのか? だが、どこに行き、どこで過ごしても、自分は自分のままであった。あの赤い夕陽に焼かれたままの自分。
たしかに呪われた身だ、とジュシは闇の中で自嘲する。自分に似たこの暗闇を心地良いとすら思う。
この闇の中ではいつもの癖である手の甲を見てそこになにも無いことを気にする必要もなく、また傷つく必要がないのだから。
ほらこのように左手の甲をかざしてみると。
「朝だぞジュシ! 寝坊助は貧乏の印だといつも言っているだろうが」
アリバが朝利権的な説教と共に扉を開けると光によって手の甲が曝け出された。印の無い、なにもない手の甲。それはそのまま自らの運命であるかのようで。
「おっおはようございます。あの今日は定休日ですので休みだと思っておりまして」
「昨日言ったはずだろ。聞いてない? えっ言ってない? じゃあ今言うから聞け。隣の街で特別バザーがあるんだ。このアリバ様のお手伝いとして付き合うように、じゃあ準備をしろ」
ドアが閉まりまた闇が来たがジュシは小さな窓を開け物置小屋に光を入れた。光は毛布と机を照らしジュシの眼を射し、再び思うしかなかった。今日があの日から三年目に到着したと。何処にも行ってはいないというのに月日だけが無情にも流れていく。
一時間後にジュシはアリバと共に砂馬の馬車に乗り市場へと出発していた。ジュシは窓の外を眺めアリバは焼き菓子を齧っている。一度石に乗っかったのか馬車が大きく跳ねたがジュシは驚きもせず、またアリバも一切頓着せずに焼き菓子を齧り続けた。巨体を縮ませ鼠のように前歯で以って焼き菓子を齧るその姿にジュシはすっかりと慣れていた。
食べ終わるとアリバはやっと聞いた。
「さっき跳ねたな」
「ええ跳ねましたね」
と確認だけ済ませ、またアリバは焼き菓子を食べることを再開させた。
アリバのボスが食事に熱中している時は決してこちらから話しかけてはならない、とジュシは初期の段階から説明されずとも了解していた。
よって一言も口をこちらから利かずに話しかけられた時だけ一言二言返すだけと心がけていたが、ここがアリバに最初の頃から気に入られた。
一心不乱に齧りながらもアリバの思考はくるくると回っている。やはり良いものを拾った、と。
あれは、と記憶を探るもアリバの頭にはジュシと出会った年のことは不明瞭であり、たぶんと曖昧模糊なままいつも勘違いしてはいたが、今日は出会いの時のことははっきりと思い出せた。そうだあれは三年前の砂漠踏破の初挑戦の時だった、と。
砂漠を越え東を目指すべく傭兵の案内所に行くも誰一人として首を縦に振らなかったときの寂しさをアリバは久しぶりに思い出す。
賞金の問題ではなく、命を賭けた冒険には付き合えない、それがほぼ全員の意見であった。手を挙げたら死ぬだけだ、とすら言ったものもいた。
ただ一人を除いては。手を挙げたのは陰気な若い男だった。荒んだ雰囲気を持っているものの、悪人には見えなかった。いつものように値踏みをする目付きで見るも、嫌な予感が無かった。
聞くとその男は入ったばかりであるために誰もそいつのことを知らない。客は雰囲気に警戒して初仕事すらいつまでも貰えずにいたらしい。
それはそれでアリバにとって好都合だった。砂漠越えの恐怖を知らないというのなら都合がいい。何も知らないのなら好都合だ。
必要なのはこの暴挙に近い試みに従うものを連れていくこと。まずは実績作り、と。そうと決めればアリバはその男の手を強く握った。二度と離さないというぐらいに。
「わしの名前はアリバだ。ここからずっと西から足を伸ばしてここまでやってきた。そしてもっと遠くに足を伸ばしてみたくなったものでな。よろしく頼みたいが、それでお前の名前は?」
そう聞くと若い男はバツが悪そうに小声で何かを言ったがアルバの耳には何も入ってこなかった。強めの方言なのだろうか?
理由はとにかくアリバはその名前の響きに暗いものを感じた。これからの旅に不吉さは厳禁だ、許されない。冗談じゃない。
「なんだかその名前は駄目だ。不吉な気がする。いますぐ変えてくれ」
わしは何を言っているのだろうと自分で気づくも後の祭りで、これで依頼を断られたら損をしたなと暗い気分になるも、眼の前の男の表情はどうしてか明るくなった。
「いいですよ。変えましょう。何にしますか」
快諾とはいったい? 自分に名前に誇りはないのかと戸惑いや喜びとが相反する理不尽な感情が湧いてくる中でアリバは言った。
「とはいえそんなに簡単に新しい名前というのもな……おいさっきジューシーとか言わなかったか?」
「……呪身とは言いました」
その名の悲しい響きを聞くと意味が分からずもアリバの身体に寒気が走った。
「もしかしてそれは忌まわしいものか」
「とても」
「では意味を変えてやる。ちょっと変えると名前の響きがわしの故郷では豊穣を意味する言葉に似ているな。だからジュシンではなく、ジュシとする。一字消したら言葉の雰囲気も変わる、どうだ? 構わんだろ」
我ながらよく分からない提案だとアリバは思うも男の表情はさらに明るくなり雰囲気も一変した。
荒んでいたものが薄れたところを見ると本当に呪いをかけられていたのかもしれない、とアリバは自分の目と直感に自信を深めた。験がいい。
かくしてジュシと呼ばれるようになった男はアリバと共に働くようになり、砂漠踏破は決行されそしてそれは成功した。
あれから三年も経つがアリバは初めてといっていいぐらいにジュシのことを考えていた。それにしてもこいつはとことん役に立ったな、とまず思った。都合のよい存在だ。