言い訳の準備はできましたか?
ハイネの声が後ろから、来た。どこから追跡してきたのか分からないものの相手が相手なために、ジーナは再び足を回転させ更なる全力疾走を開始する。
風景はもっともっと混沌を極め無意味なものへと変わっていき、この世界の何もかもが価値のないものだと思いつつある中で、また声が追ってきた。
「どこまで行くんですかー」
おかしい、とハイネの声が迫って来るのが聞こえジーナはこれは呪いか? と切実に思った。
この速さについてこれる人が、しかも女でいるとは絶対に有り得ない、が相手はあのハイネ。もしかしたらできるかもしれないと恐怖感が腹の中で湧き、なおも駆けていくもしばらくすると、声が来る。
「そろそろ休みませんかー?」
しかもすぐ後ろで。今まで振り返ることができないままであったジーナは幻を期待し、ここではじめて後方に首を微かに傾けると、ハイネがいた。
そのうえ目が合うと微笑みかえして来たので驚きでバランスを崩したのか、ジーナは地面を転がり草の上で止まった。
「あらやだ大丈夫ですかジーナさん!」
すぐにハイネが近づき脇の下に手を入れ起き上がりを助けた。やはり幻で無かった。だから怖いとジーナは震えた。
「あっすぐに喋らないで、まずは呼吸を整いながら歩きましょう。心臓が止まりますから」
別の意味で心臓が止まりそうだとジーナは思いながら苦し気に喘ぎ声を出した。やけに親切なのも新たな恐怖への前奏曲みたいでジーナは安心出来ない。
「そうそう一緒に息を合わせましょう。スーハ―スーハ―って感じで。私も息が上がっていますから呼吸を合わせて一緒にどうぞ」
右側を歩きながらハイネはジーナの荒い息遣いに合わせることに楽しげであった。何が楽しいのやら。
風景からして今いる場所が兵舎の裏の森の道であることがジーナは気づいた。
リードしていく形でハイネがジーナの手を取り導いているが、この場合は確実にあそこで。
「落ち着いてきましたがまだ話さなくていいですからね。そういえば驚きました私の足? はい驚きましたね。それほで速くありませんが、持久走なら昔から得意ですよ。あなたがどれだけ短距離が得意でそれでリードを作っても、そのうちに疲れからか少しずつ足は遅くなります。けれど私はずっと一定のスピードであなたに近づいて行くので、短期戦ならいざ知らず長期戦となったら私が勝つ可能性が高いのです。あの調子で私を撒こうだなんて努々思わぬことですよ、ってフフッ追いかけっこは私の勝ちですよ。あの逃げ方じゃ甘い甘い」
そんな遊びをした覚えはないがハイネの満足気な得意顔なのと自分の疲労感の考えたら反論はしたくはなかった。
そのうえハイネにずっと喋らせておくと、あのことを思い出さずに済むと感じられ、それもまた救いだとジーナは感じていた。
「あの、あそこに行きますよ、いつものあそこへ。ほら、みんなの眼がありますし裏へ行きましょう裏に、こっそり」
返事を聞かずにハイネはジーナの手を引っ張り裏の森の小道へと入る。逆方向から入ることは今までなく、逆さまから見るかのような風景にジーナはどこか非現実感を覚え出していた。
「到着するまえに前もって言っておきますけど、とりあえずあの、私はいま相当に怒っていますからね」
言葉とは裏腹に声にはそんな感情が籠っているようにはとても思えなかった。
それどころか明るく嬉しげで、自分には出せない言葉の響きであり、掌から伝わる温度もまた高くかつ、攻撃的なものではなかった。
だから怒ってはいないだろうと分かるが、そのハイネの不可解な矛盾した心と言動にジーナは突然ヘイムのことを思い出し、首を振る、どうしてその連想が来るというのか? それではない、そうじゃない、あの人に矛盾は、ない。
あるとしたらそれは……分裂したままの魂を抱える、私なのでは。もしもそれを今の私のようにあの人もまた、感じ取っていたのなら。
「私がなんで怒っているのか分かっていますか? 想像して今のうちに言い訳を頭の中で練っておいてくださいね」
私が憎んでいる理由は分かりますか? ジーナは頭の中で浮かんだ言葉を消すために心の中で長い叫び声を上げ、いつしか息切れがし、頭が真っ白になるまで続けた。
ここでの逢瀬を何度しただろうか? と数は思い出せないけれどハイネは多分覚えていそうなので聞かないことにしよう、とジーナはその周りを見回した。
もうすっかり冬へと入ったため微かに残っていた緑も無くなり枯葉の色どころか、落葉しきった木々に囲まれ裸となった枝々から灰色の空ばかりが覗かせている。
寂しげな雰囲気であるのに、ハイネは近づくにつれて小走りになっていく。なにがそこにあるというのか? 長椅子のごとき岩にハイネはバックから取り出した敷布をひろげ固定位置のようにこちらを左側に座らせ自分を右側へとあとから座る。
これも逆だな、とジーナは思うがそれが何の逆であるのかはそれ以上考えることなくハイネをちょっと見て、それから目を逸らし左を見る。
そこには誰もいないというのに
「言い訳の準備は出来ましたか? 出来ないからって目を逸らしても無駄ですからね。とことん追求しますので覚悟を、どうぞ。予定としては怒りが終わりましたら次は喜びに行きます。私だって鬼じゃありませんのでこの度の戦いのお祝いもしたい所存ですので。そこのところをよくよくご理解の上で、では怒りますよ。私を見てください」
言い訳の言葉の準備など一切考えずにジーナが右に顔を戻すとそこには怒っているように見える喜びの顔がそこにあった。
表情は怒りであるのは分かるが、その眼の光りが違う。この一点において怒りと喜びは一線を分かつことをハイネは知っているのだろうか? 知らないのだろう、そんなことは自分ではわからない、ジーナ自身も今はじめて知り、そのうえで改めて想像する。
あの人がもしもこのことを私よりも先に知っているとしたら……私を通じて知っていたとしたら。
「酷いじゃないですか。私と約束したのに先頭になって一番乗りを果たしたとか、話が違いますよ。私はあなたの言葉を疑いもせずにいましたからそのことを聞いた途端にびっくりしちゃって……なんで約束を破ったのですか?」
憤激しながらハイネはジーナの手の甲を抓るとあらぬ方向からの攻撃かと思えて思わず悲鳴があがった。
「痛いですか? そうでしょう痛いように抓りましたからね。痛がって当然で良いリアクションありがとうございます。そうですよ、あの時の私の痛みはこれが心臓にきたのと同じですからね。それでどうして約束を破ったのか、言い訳をご説明をいただきましょう。そうでないともう一度抓りますよ」
元より言い訳など考えていなかったジーナだがハイネはハイネで別に言い訳など求めていないようにも見えた。
ただこうしている時だけが必要だと言うように、ひいてはそれはあの人が私に求めていたことと同じなのでは?
「すまない」
誰に対してこれを言っているのか? ジーナは言葉を出したがこれ以上の言葉はどこからも出なかった。
「痛すぎてそれ以外の言葉が思い浮かばなないのですか? 駄目ですよそんな言葉じゃ、足りません」
ジーナは痛みが耐え難いほどになりつつあった。それは手の甲のではなく自身の胸の中であり、思っていることはさっきの出来事の、ヘイムのことを思い今一度言葉を重ねる。
「すまない」
同じ言葉であったが何かが違うことにハイネは気づき、怒りの仮面を捨て笑みをも消した。
「そういえば今の時間はあなたは龍の館にいるはずですよね? そもそもどうして走っていたのです? 私はあなたのことを見つけて、ついそこのところを……」
質問と独り言で混ざった言葉を口にし混乱しながらハイネはジーナの顔を正面から今日初めて見た。だからすぐに気づいた。
その表情の意味を、あれは走り疲れた男の顔ではなく傷を負い苦しむ男の顔であったと。そうと分かったハイネは自分の心に罪悪感と同時に怒りが巻き起こり黒い憎悪を抱いた。
こんなことに気付かずにただ一人で幸福な気分であったことを。同時に自分がこんなに近くにいるというのに、この男は、私ではない女の事を懸想していることに。
敵はそこにいる、とハイネは見た。だがその敵は心にいる、と。ならばと混沌を極めた感情と一体となったハイネは自己のうちにある全ての意思を総動員し眼の前にいる男に集中しだした。
敵がそこにいるように、挑むように、涙をにじませ睨みながらジーナの心と体の動きを眼を見開いて見つめる。