私は心優しき男であります
訓練と演習は減るどころか回数と密度が増え続け、兵隊たちの気分は以前の希望的観測を忘れ誰もが現実的なものを抱き出した。
近いうちに戦争が起こる、と。あのソグ山で、あの雪が降りしきるこの世界のひとつ境界で、しかしどうしてこの季節に?
いっぽうこんな状況下であるがジーナの龍の館の任務は継続していた。
「戦が始まる前こそこの儀式は肝心であるぞ。この素人どころか不信仰者め」
減らすのではなく完全に無くしたらどうですかという、もとから期待していない質問兼要望に対してヘイムは即座に却下を下し、減るどころか回数を増やされる羽目に陥った。
そのせいで訓練の合間合間に龍の館へ行くという二重労働を架せられジーナの疲労は増すが、それに輪をかけて疲労の色が濃いのが眼の前で目を開けながら眠っているシオンであった。
そのあまりにも異様な寝姿に声を掛けようとしたジーナをヘイムが止めて曰く。これはシオンの昔からの一つの癖であり、横になって眠ると起き上がれないから、こうして座ったままの姿勢で短い時間を利用して眠っているのだ、と。
説明を聞いているうちにシオンは起きたのか茶を一口すすりまた座りながら寝はじめた。あれは無意識下で行う、私は起きていますよ行動だから声を掛けるでない、と。
「決まりませんね」
いつものように座寝をしていたシオンが突然口を開いたためにジーナはもとよりヘイムも驚き目を向ける。少し見慣れた異様な姿であるが、これは異常なのだろう。
普段は端正な表情であるのにこの時は虚ろで焦点の合わぬ目で第三者に語るような口調で以てシオンは語る。
「行動をいつから始めるのかはあの最後の最後の会議ですら決まりません。マイラ様は言います。これを逃してはこの先はもっと大きな犠牲が生じると、だけどもバルツ将軍も叫びます、そのようなバクチをするぐらいなら確実なる方法が可能となるまで待つ、と。議論は平行線を延々を歩み、結局どちらにも流れは引き寄せられなかったけれども、私は思います、マイラ様の方が有利であり、バルツ将軍も心のどこかでそれを認めているのだと」
抑揚なく書状を読み上げるようにシオンは口を動かしたかと思いきやすぐさま椅子の背もたれに寄り掛かり、同じ姿勢のまま眠りだした。
バツが悪そうにヘイムは茶を飲みジーナもそれに倣って一口呑むとヘイムが問いかけてきた。
「聞かぬのか? どうしてバルツが決心を鈍るのかを」
「聞きません。それを私ごときが聞いてどうするのでしょうか? どうして御決心なさらないのでしょうか? などバルツ様の身を思えば到底聞けません」
「ほぉ随分と優しいのだな」
鼻で笑いながらヘイムが揺さぶってきた。
「私は心優しい男でありますよ」
「心の優しい男は自称などせん。そう思いたいがために自分に言い聞かせている半端な悪人か、もしくは自己を客観視できない狂人か愚者のどちらかだが、今は問わぬ。とりあえずシオンの眠りを妨げてはならないとは心優しくないそなたにだって分かるであろう。外に出るぞ」
そっとヘイムは右手を差し伸べジーナは左手でそれを受け取る。何度も繰り返した動きでありいつものことであるのに、ジーナはどこか違和感がありそれを消そうと強めに握り返すと、ヘイムの表情が変化し慌てて緩めようとすると今度はその手が強く握ってきた。
まるでさっきので良いと言っているような手の動きのために、ジーナは力を入れるとヘイムは微笑み、言葉ではそのことに触れなかった。
灰色の空のもと、二人はいつになく無言のままで歩いていた。何度も歩き回ったこの庭園。歩けば歩くほどに時が過ぎ冬へと進んでいく。
元々ジーナは自ら話すということはあまりなく専らヘイムの言葉の聞き役であったが、そのヘイムが今日は無口であり何も語らずに庭園をただ回り続けるだけであった。
一周目二周目と同じ歩調で同じ時間でもって回るその脚、そして強めに握り返されたままの手。だが三周目に入ろうとする前に変化があった。ヘイムの足が少し遅くなり、それから小声が聞こえてきた。
「ジーナは」
しかしその言葉は風が吹きその音によって遠くに飛ばされたように、消え去って行った。
風がやむのを待つため二人は足を止め向き合う。いつの間にかそこはいつもの岩の近くでありヘイムは咳払いをしすると、無風となりそこで再び言葉を投げる。
「そなたは戦闘開始を望むのだろうな」
言葉と共にヘイムの手が強く握られていくのがジーナには分かった。
「ここから離れ一刻も早く戦場に行きたいと思っているであろう」
握りは強まっていくものだが、ここでもまたジーナは痛みを感じなかった。
それよりもヘイムの言葉の響きと視線に心が刺激され痛みは彼方に、吹き飛ばされていくように。
「龍を討つために」
ヘイムの言葉に視線に手によってジーナの心は大きな音を立てて一変し黒い熱が心にみなぎった。
「そうです。私は一刻も早く龍のいる場所に行きたいですね。しかしそれはあなただって同じことだ。あなたも中央へ行きたいのでしょう」