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―ふと気づくと、澪は仰向けに寝転がっていた。床ではなく(どうにも固い感触ではあるが)ベッドか何かに寝かされているようだ。
辺りは暗く、目を開けても何も見えない。…ハルは無事だろうか。はあ、と溜息をついたその時、寝転がる澪の足元に何かが乗る。
「……………?」
生ぬるい温度のそれはとても小さい。起き上がろうとした澪の身体は動かず、小さいそれは澪の身体をゆっくり、ゆっくりと這い上ってきた。ひどい耳鳴りがする。耳鳴りがあまりにもうるさくて、澪は堪えるように目を瞑った。
きぃーーーーーーーーぁ
きぃーーーーーーゃぁ
耳鳴りの音が変わっていく。足元のそれが這い上がってくるにつれ、徐々に別の音へと。
きぃーーーーぎゃあ
きぃーーーおぎゃあ
「(これ、赤ちゃんの泣き声…!?)」
常ならば微笑ましいと感じる声。しかし今いるのはこの奇妙な病院、赤子の声も耳鳴りから変化したもの。澪は目をさらにぎゅっと強く瞑る。
それは、澪の胸元まで。
おぎゃあ、おぎゃあ
「(やばいやばいやばい!早く逃げなくちゃ)」
おぎゃあ、おぎゃあ
声が近い。起き上がれない。澪の身体は動けない。焦る澪の顔を、赤子が覗き込んでくる。
今や声は目前で聞こえていた。強く強く瞑った瞼の向こう側で、赤子(…本当に赤子だろうか?)が泣く。なく。ないている。わずかに風が起きる。小さな手が伸ばされる気配。強く瞑る。手は澪の眼前に迫って、
「―大丈夫かい?」
「………………っ!」
澪は勢いよく体を起こした。荒れていたはずの手術室は綺麗に…それこそ、現在も使われているかのごとく整頓されていた。
澪に声をかけたのは眼鏡をかけた優しげな白衣の男性で、彼は心配そうに澪の顔色を覗き込んでいる。
「すごくうなされていたけど、悪い夢でも見たのかい?」
「……あ……ゆ、め…?」
夢…本当に夢だろうか?あまりにも現実感がありすぎた夢だった。軽く頭を振る。
「まだ横になっているといい。…手術室のベッドは固いから、あまり休めないかもしれないけどね」
「…いえ…はい、そう、します」
起こした体を再びベッドに横たえる。目を閉じてふー、と長く息を吐いた。…体の力が抜ける。ひどく緊張していたらしいと気が付いて、澪は小さく笑った。
ふと頭によぎったのは、澪を逃がすため囮になった看護師のこと。
「…あの、ハルさん、は」
「…ハル? 誰のことだい?」
「あ…」
「君、さっきは本当にひどいうなされ方をしていたんだよ。よっぽど怖い夢を見たんだね」
カチャカチャと手元で何かを弄りながら、医師はそう言ってこちらへ安心させるような笑みを向けた。
夢ならば、先の妙な様子の病院も…ハルも、すべては夢だったことになる。澪は仰向けのまま、顔に腕を乗せて深いため息を吐いた。
「ふー…」
「ああ…どんな夢かは分からないが、辛かったんだね。かわいそうに。
君、もう大丈夫だよ。僕が処置してあげるからね」
「…え?」
その言葉に、澪は乗せていた腕を退ける。明るくなった視界で、医師はこちらを見下ろして優しげな笑みを浮かべていた。
―手に持ったメスの切っ先を、真っ直ぐ澪の腹に向けて。
「は…え?」
「少し痛いかも知れないけれど、大丈夫、すぐに終わるよ。ちょっとだけ我慢してね」
「な、なに、を」
「生きるのは辛いことばかりだ。もうすぐ、きみは辛いことや悲しいことから解放される。
安心していいよ、僕が処置してあげよう」
澪を安心させようとするような、あまりにも普通の柔らかな微笑み。だからこそ今までの何よりもおぞましく感じて。
明るく清潔な手術室が崩れ、みるみる荒廃していく。澪は慌て起き上がろうとするが、いつの間にか腕や足や腹にベルトが掛けられベッドに縛り付けられていた。身動きが取れない。
「や、やめ、やめて!」
「怖くないよ。すぐに終わりだ。大丈夫、僕が処置しよう。生きることは辛い。楽な方に逃げていいんだ。辛いことばかりだろう?君に優しくしたいんだ。君を辛いことから解放したい。死んだらそこで終わる。大丈夫だよ。
さあ、死ね」
「死んだって終わらないわ。未練や執着が残るのなら」
バヅン!と大きな音を立てて澪の拘束具が外れる。跳ね起きベッドから飛び降りた澪の手に、女性特有の柔らかな手が触れた。冷たくて気持ちがいい。
看護師はにこりと笑いかける。
「澪ちゃん、いきましょう」
「っはい!」
「なぜ?なぜ。なぜ。ここで死ねば救われる。死ねば終われる。死ねば楽だ。死ねば死ねば死ねば死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね」
「少なくともあんたに殺されるのなんか嫌だっての!」
体当たりのように扉を開いて、看護師と少女は手術室を飛び出した。