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ハルの案内は的確だった。看護師は不気味な輩やわけのわからないものを避けるのがとても上手で、御手洗の時のようにソレらに見つかることなく、澪は廊下を進めていた。
「あら…」
ふと、看護師は歩みを止める。彼女は廊下を曲がった先を注視していた。
「? なにが、」
澪も看護師の陰から曲がり角を覗き込んでー理解した瞬間、思わず悲鳴を上げそうになった自身の口元を押さえる。
黒いスライムか何かに見えた。ゆらゆら、ぐにゃり、揺らぐ不定形のそれは、一見するとトイレや廊下に点在するひとがたの何かに比べればましに見えた…おぼろげに形作ってはどろりと溶けるその黒が、人のパーツと気が付くまでは。
「………!!!」
人間の腕、足、髪の生えた頭部…腕や手が一番多い。助けを求めるように延ばされる手は、それをあざわらうかのように弾けて黒の中へと溶け戻る。
高さは…澪の膝丈くらいまでありそうか。不定形だからか液体のように広く廊下を占拠していて、水たまりのように跨いでいくことは難しそうだ。
「いけないわ…いちど戻りましょう。静かにね」
ハルが澪の耳元で囁く。口を押さえたまま何度も首を縦に振る澪に、看護師はふっと笑うように息を漏らした。
それに気が抜けて、口から手を離して振り向いたそこに、真後ろに。
こちらを覗き込むような、黒い人影が立っていた。澪はヒュッと息を飲む、けれどそれだけで十分だった。
黒い人影達も、スライムのようななにかも、院内のすべてが澪に視線を向ける。温度がなくただ湿度だけあるようなその目たちに刺された澪という名のむしろはその瞳を見開いたまま硬直した。
―こちらを、澪が持っていて彼らが持たぬソレを、彼らは欲している。
「いけない、澪ちゃん!」
声ではっと我に返る。氷のような看護師の手に掴まれ走り出した澪の背を、酷く冷たいなにかが掠めた。
「っ!!」
「振り返っちゃ駄目よ!」
「言われなくとも…!」
声が震えたのは走っているせいだけではない。冷えたハルの手に引かれ院内を駆け抜ける。あちこちから澪へ向かって手を伸ばす何某かをなるべく見ないよう、出来るだけ彼女の腰にあるエプロンを見つめて必死に足を動かした。
「駄目、駄目だわ、一度まかなくちゃ…澪ちゃんの病室へは返してあげられない…!」
「どう、すれば…ぜえ、はあ…」
「だ、大丈夫?」
「す、すみませ、小さいころから、入院生活で…」
「…澪ちゃん、止まるわよ!」
ハルは不意に足を止める。繋がれているのと反対の手で自身の胸元を掴み、肩で息をする澪はもはや周囲を見る余裕がない。
看護師は辺りを見回しながら、後ろ手にすぐそばにある扉を開いた。
「中に入りなさい。この病室でやり過ごしましょう」
「はー、はー、はい…わっ!」
言われるまま中に足を向けた澪は、その背をどんっと強く押される。慌て振り返った少女が見たのは、外から扉を閉めるハルの手だった。
「は、ハルさん!?」
「私は大丈夫、貴女はそこで息を整えて。
此れ等が散ったら扉を開くから、いいわね?」
「ハルさん、待っ」
ばたん。
伸ばした手虚しく、扉は看護師の姿を隠す。
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一部描写の変更