06.長い冬が終わる。
***前回のあらすじ***
シェリナの陣痛が始まった。陣痛に苦しむシェリナの姿になすすべなく狼狽えるロンバート。やがて無事、男の子が生まれた。
すやすやと眠る我が子の小さな手を、指先で掬う様に持ち上げる。
小指程しかない頼りなげな小さな手は、無防備にきゅぅっとその指を握り返した。
頬に口づけると、ふわりとミルクの香りがする。まだ生えそろわない髪はふわふわと柔らかく綿毛の様だ。
愛おしくて胸が苦しくなる。我が子とは何と可愛いものか。何て愛おしい存在だろう。
穏やかに寝息を立てる妻と生まれたばかりの我が子が寄り添い眠る姿はいつまで見ていても飽きることが無い。
ロンバートは、母へ想いを馳せた。
母に望まれなかった自分。何度も殺されかけた自分。
それでも、母が自分を見る眼差しは、いつも優しかった。
愛してくれていると無条件で信じてしまうほど、その微笑みは暖かかった。
『母』になる時、人は貴族でも平民でもなく、ただの人になるのだ、子を産むというのは、平等なのだ、と、そう教えてくれたのは侍女頭だ。
──なら、あの母も、あんな風に自分を産んだのだろうか。
自分を見て、こんな感情を抱いてくれたりしたのだろうか。
…それとも、生まれ落ちる前からも、生まれ落ちた瞬間も、厭われていたのだろうか──
あれから、1度も母には、逢っていない。
***
柔らかい金色の髪は父であるロンバート譲り。
長い睫毛に縁どられた瞳は透き通る柔らかな水色。これは母であるシェリナ譲り。
2人の天使はマシューと名付けられ、すくすくと育った。
クリスティアナ曰く、幼い頃のロンバートにそっくりなのだそうだ。
駆け寄ってきたマシューをロンバートは高く抱き上げる。
きゃっきゃと無邪気に笑うマシューは無垢で愛おしさが込み上げる。
思わず頬ずりをしていたら、その様子を微笑まし気に見つめていたシェリナが口を開いた。
「ねぇ? ロン」
「──ん?」
「私、お義母様にお会いしたいわ。国王陛下──お義父様にも」
「──え?」
ロンバートは驚いて目を見開いた。シェリナの笑みは慈愛に満ちた女神の様だ。
「ロンも、本当はお会いしたいんでしょう?お義母様に。あなたの事だもの。ずっとふさぎ込んでいたのを、私が気づかない筈が無いでしょう?」
「シェリナ…」
「それに、陛下もきっと孫の顔を見たいんじゃないかしら? 陛下にとってあなたが息子であることは変わらないと思うのよ」
シェリナの言葉に、ロンはぐっと喉が鳴る。目頭が熱くなった。零れ落ちそうになる涙を堪えようと空を見上げる。
小さなマシューの手が、頬に触れた。
***
王妃が幽閉されているのは、王宮の西の塔だった。美しい白亜の塔の最上部にその部屋がある。
ロンバートは、衛兵に連れられて、一歩一歩階段を上がった。
幼いマシューを抱いたシェリナも一緒だ。少しずつ上から洩れる明りが見えて来る。
「こちらです」
登り切った先にあったのは鉄格子の嵌った窓と木の扉。衛兵が扉を開けると、中には白い魔力封じの鉄格子で遮断された部屋だった。
鉄格子の部屋の中には、少しやつれた様な母の姿と彼女の世話をする為の侍女が1人。
高い位置に付けられた窓にも魔力封じの鉄格子が施されているが、物々しい鉄格子を覗けば、広く明るく、清潔な部屋だった。
衛兵が椅子を2つ運んでくる。ゆっくりと立ち上がる母を見つめながら、ロンバートは腰を下ろした。
部屋の中の侍女も王妃へと一礼し、椅子を鉄格子越しに向かい合う位置へと運んでくる。
「ロンバート」
母の眼は、以前と変わらず優しかった。未だに、信じられない。本当にこの母が自分に毒をと命じたのかと。
侍女に手を引かれ、王妃が優雅な仕草で鉄格子の前へと歩み寄る。
王妃は椅子には座らずに静かに2人を見下ろした。凛と気高い姿は、ロンバートの良く知る母の姿だ。鉄格子が無ければ幽閉されているのが嘘の様だ。
「息子、が、産まれました。名は、マシューと言います」
「そう…。可愛いわねぇ…。小さい時のあなたにそっくりね」
王妃はマシューと目を合わせる様にその場にしゃがみこんで、鉄格子の間からそっと手を差し伸べた。
一瞬触れさせるのを拒もうかと思った。何かよからぬことをするのでは、と。
だが、シェリナは柔らかく微笑むと、マシューを抱いて鉄格子へと歩み寄り、王妃のすぐ傍に同じようにしゃがんでマシューへ視線を向けた。
「マシュー? おばあさまよ」
「おばあちゃま?」
シェリナが優しくそう教えると、マシューは舌ったらずに復唱し、無邪気に伸ばされた手を両手できゅぅっと握り、きゃっきゃと笑う。
ふわり、と王妃の頬に幸せそうな笑みが浮かんだ。小さな手に、頬を寄せる。
「そうよ。おばあさまよ。マシュー。うふふっ。可愛いわ。良い子ねぇ。瞳の色は貴女によく似ているわ。シェリナさん」
マシューの手をあやす様に揺らす母に、ロンバートは胸を詰まらせながら、ずっと蟠りのあった疑問を口にした。
「ははうえ…。わたし、は、マシューが産まれる時、シェリナの傍におりました。出産の壮絶さも、生まれてくれた時の感動も…。我が子とは何て可愛いのだろうと、なんて愛おしい存在なのだろうと、思いました」
王妃の顔が上がる。
「母上、は…? 母上は、私が、生まれた時から、私を厭わしく思っておられたのでしょうか…」
私を、殺したい程厭いながら、己の運命を呪いながら、産み落としたのでしょうか──
「いいえ」
即答、だった。
「身籠ったと気づいた時は、恐ろしかったわ。流産する様に神に願ったりもしたわ。けれど、あなた、お腹を蹴るの。痛いくらいに。私がね。こうしてお腹をぽんってすると、ぽんって蹴り返してくるのよ。あなたはやんちゃで、お腹の中でも元気いっぱいで…。なんて可愛いのだろうと思ったわ。貴方が産まれてくれた時、全部吹き飛んでしまったわ。愛おしくて愛おしくて、この子を守りたい、そう思ったわ」
王妃は、ふわりと立ち上がると、ぽん、と拳でお腹を軽く叩いた。まるであやす様に。その眼差しは、マシューをお腹に宿していた時のシェリナの微笑に良く似ていた。慈愛に満ちた、優しい笑み。ロンバートは、はっと息を飲んだ。
「…貴方を王位に付けるわけには行かない。陛下のお子ではないのですもの。貴方が王位を継ぐ前に、貴方を消さなくてはと思った事は本当よ。でも──」
王妃は、長い睫毛を伏せた。
「それでも、愛していたのも、本当よ」
顔を上げた王妃の瞳から、涙が1筋零れ落ちた。
「死なないでと願った。生きていて良かったと、心の底から安堵した。それも、本当なのよ──」
***
「…そうか。妃が…フローティアがそんなことをな」
幼いマシューを膝の上に乗せ、あやしながら国王エルネストは目尻の皺を深くした。
マシューが無邪気に国王の髭をひっぱったりとするものだから、シェリナは気が気では無い。
「…ロンバート」
「はい」
「お前はフローティアを恨んでいるか?」
「──いいえ」
フローティア──母に、殺されかけた事もあった。それでも、心に浮かんだのは恨みでも憎しみでもなく、嫌われていたのかという悲しみだった。
「…そうか。おお、マシュー。ほれ、おじいさまと呼んでごらん」
「おじーしゃま!」
国王は高い高いとマシューを掲げ、一度自分の腕に抱く。視線はロンバートへと向けながら。
「お前も今まで通りな。誰がなんと言おうと構わん。お前は私の息子だ。たまには顔を出せ。寂しいではないか」
「──! …父上…」
「そうですよ、兄上。全然会いに来て下さらないし、オッド領は山越えをしなくちゃいけないからって連れて行って貰えないんですよ? 兄上がいらして下さらないとお会いできないじゃないですか。僕、弟欲しかったんですよね。だから時々はマシューに会わせて頂かないと。ほら、マシュー、にいさまと遊ぼう?」
「さーひすにーしゃま!」
マシューはじたじたと国王の膝の上から抜け出すと、サーフィスを追ってとてとてと駆けて行く。
国王が笑う。シェリナも笑う。見守る近衛騎士達も、城仕えの女官達も微笑まし気に笑う。暖かく、穏やかな空気が包み込む。
まるで、春の陽だまりの様に。
『母への恨みが無いのなら、もう禍根を残すまい』。
言葉にはしなかった父の想いは、ロンバートの胸を暖かく包み込んだ。長い、長い冬が終わった。そんな気がした。
ご閲覧有難うございます! ちょっと予定変更、書きたかった話を思い出したんで、追加しました。
次はまた時間が取れたら更新します。次回完結の予定ですっ。