あなたの願い
『ありがとう』
そのひとことだけが書かれた紙。
殺風景と言ってもいいくらい綺麗に整理整頓された部屋の、ゴミ箱に入っていた、キレイに折り畳まった紙。
私の妻の都希の字で書かれたそれを指でなぞってみる。
無機質でできているはずのそれからは、あたたかいなにかが伝わってくるようで。
都希のことを想い起す。
都希はとても不思議な人だった。
私の家系は、代々特殊な力を持っている。
人の心を読む、能力。
それを商売に有効活用して、会社を大きくしてきた。
この能力は使い勝手が良い。相手が考えていること、相手が望んでいないこと、これらが手に取るようにわかるのだから。商談をまとめたり、円滑な人事に役立つ。
そんな便利な力には、やはり、デメリットというものも存在する。
それは、日常的に、一緒の空間にいる他人の心を読み取り続けるので、浮き沈みが激しい相手と一緒だと、ストレスを感じてしまうところだ。心を読むかどうかはほぼコントロール不可能。
疲れたら、ひとりで部屋にこもるか、だれもいない公園にでも息抜きにいけばいいだけの話なので、そこまで酷いものではない。
ただ、問題があるとしたら、長い時間一緒にいなければならない家族だ。
両親は、私という子孫を設けたあと、無駄に広い家の中で家庭内別居のような状態になっている。
子どもの自分としては、それはそれで別になにも問題はなかった。母に会いたければ、母の部屋に行けば良いのだし、父に用があれば、父の部屋か書斎などに赴けば良い。家の体裁を保つために使用人もいて、幼いころは乳母までいたので、寂しくはなかった。
しかし、自身の妻や子どもには、両親のようにはさせたくないと思った。特に理由はないが、しいて言えば、両親が顔を合わせたときにお互いにお互いをなんとも思っていないような感情が流れてくるのが嫌であることが根拠なのかもしれない。こんな思いを子どもにさせたくないし、妻となる人にはちゃんと向き合いたい。
そう思った私は、両親がそれぞれに持ってくるお見合いの話に真剣になった。どこそこのお嬢さんは優秀で、別嬪さんで。などと紹介されてお見合いをする。
お見合いをしてわかったが、若い女性は心の中がとても騒がしい人が多いということだった。私の顔を見て、沸き立ったかと思えば、次の瞬間、欲まみれになったり、と、ころころ変わっていく。
一時も休まる瞬間が無く、長時間同じ空間にいたら疲れてしまうだろう。
必要以上に父が母と顔を合わせないようにしてきた理由がわかる気がする。
母は父がそのような能力を持っていることを知っているので、一緒にいないのだろう。
私が受け入れることができて、私を許容してくれる人はいないのだろうか。
何回目のお見合いだろうか。結構な回数を重ねてきたので、だれの紹介でどこのお嬢さんかなどということさえ気を遣わなくなってきたころ。
都希に出逢った。
その日は珍しく両親が揃っていて、どちらも時間が空いていて、私のお見合いに付き合ってくれると言ってくれた。それを両親ふたりとも別々に言ってきたので、なにも考えずに両方にお願いしてしまった。
そうしたら、両親はお互いがいるとは思いもしなかったようで、お見合い相手が待っている部屋の前で驚いた顔で見合わせていた。面白いこともあるものだと思いながら、入室を促した。
お相手の両親は、心を読むまでもなく、緊張が見て取れた。
その間にいる、歳相応でかわいらしい彼女は、都希 と名乗った。
心が読み取れない。彼女の考えていることが全く覗けない。
いいや、違う。都希は特にこれといった想いをもっていないだけであるのだ。特になにも感じず、なにも考えていないのだろう。緊張もせず、ぼうっとしている。
私と同じ能力を持つ父親も、都希の心の動かなさに驚いているようだ。表情には出さないが、私には筒抜けである。もちろん、私の考えていることも父に筒抜けであろう。
一瞬、脳になにか欠陥でもあるのではないかと思った。しかし、そういう彼らは彼らで良く良く心が動くので、都希は違うのだろう。
となると、この子の、のほほんとした心が空っぽな感じはこの子特有のものか。
都希が私を見る。
1921-03-03
なんだ? 数字がパッと流れてきた。都希が私を見て考えたことらしい。どういうことだ? この数字はどんな意味だ? 年月日であるとしたら、今よりも何十年も後の年だ。
都希は次に私の父を見る。
1883-12-08
私よりは数十年前の年だが、やはりまだ何年も先の数字。そして『髭が立派でいらっしゃる』という考えが読み取れた。そうだな、うちの父は髭が立派だな。私も伸ばそうか。
そして母には。
1907-08-24
私よりは数年早い年月日。何の意味があるのだろう。
『きっちりとした装いですね』……感想が簡素すぎて、本当にこの娘は年頃の子なのか心配になるほどだ。
再度、私を見てくれたので、都希が何を思うのかと待ち構えたら。
『目と鼻と口がある。ええと、穏やかな雰囲気の方……?』
え、それだけ? 目と鼻と口って誰にでもあるだろ。それに、どうして疑問符がつくんだ。で、本当にそれだけの感想らしい。
『今まではお前の顔を見れば、見合い相手はカッコいい! 素敵! などとキャーキャー心が騒いでいたのにな。不思議な娘さんだ』
親父の心がうるさい。
『うるさいとはなんだ。親に向かって失礼だぞ』
はい、はい。
思考を勝手に読みあってしまう親父とのやりとりは置いておいて。
見合い相手とその両親の表面的な批評をずらずらと考え続けているうちの母親の思考も置いておいて。
都希というこの子は今まで会ってきた人々とは異なるようだ。不安になるほどに何も考えず、緩やかな心。でも、それは私にとって少し心地よい。うるさいよりは断然良い。
しかし、常に相手の思考を読み取って、対応をしてきた私が。この何を考えているのかわからない人に対して適切な対話ができるかといえば、わからない。未知の世界だ。
わくわくする。だって、相手の心がわからない、というのは、私と私の祖先以外の普通を疑似体験できるようなものではないか。
「あとはお若いおふたりで」というお決まり文句のあと、ふたりきりになって話しかけてみる。
「都希さんは、緊張していないようですね」
「いえ、それほどでも」
それほどでもというのはどれほどのものなのだろうか。
それは置いておくとして、話しかけてみると、案外普通の人と同じような返事を返してくる。変に奇をてらおうとするでもない返事は好ましい。
会話をしているときの都希の感情は、ただの平穏を保ったままである。少しばかりは私に意識が向いてくれているようだが、基本的にはなにも考えていないようだ。
この子となら、一緒にいることにストレスを感じないかもしれない。
ふと、そう思った。
庭の池で泳ぐ錦鯉を興味深そうに見つめている都希を見て、もっと奇麗で面白いものを見せてあげたいと思った。
この心の静かな彼女が、感情をもってくれるなにかを、見せてあげたい。
一緒に見て、笑いあいたい。
思考も表情も変化の乏しい彼女を見て。
そう、思った。
お見合いを終えて、私は都希の家へ結婚を前提としたお付き合いを申し込みたい旨を伝えた。
肯定の返事が返ってきた。
さっそく都希をデートと称して色々な場所に連れ回してみた。私の杞憂は杞憂のままで、彼女との対応と対話は問題なくできた。
彼女は他人を視界に入れた瞬間に、未来の年月日のような数字を思い浮かべることがわかった。が、その数字が何なのかはまだわかっていない。訊くこともできていない。訊いてしまったら、私は私が人の心を読めることを言わなくてはいけないから。まだ、そのときではない。
デートで、景色のきれいな所につれて行けば、彼女はきれいと言い、美味しい料理屋さんにつれて行けば、彼女は美味しいと言う。
表面的には普通すぎる彼女の反応なのだが、心を読めばそれは違うものだった。なんというか、他の人にはない面白さがある。
有名な色とりどりの花畑につれていったら、まず都希は『花……? いっぱい。花は……きれいなものの代表格。おそらくこの風景は美しい……と言われるもの……かな。たぶん、合ってる。』と心の中で考えてから「美しいですね」と言うのだ。その言葉に感情は乗らない。
まるでロボットのような反応だ。高度な人工頭脳と言ったほうが良いか。あらかじめプログラミングされたものでないと上手く反応しない。
でも、都希にはロボットにはないものがある。漠然とした幸福感を彼女はずっと持ち続けているようなのだ。ふんわりとしたそのあたたかな感情は、私の心を癒してくれる。
そのあたたかな感情が高まる瞬間がある。都希が彼女の両親と弟さんの笑顔を見たときだ。
その感覚に、私の心は揺り動かされる。
これまでたくさんの他人の心を見てきた。その思考や感情を受け流してきた。いちいち囚われていては自分の心が潰れるだけだから。
それなのに。
私は都希の、そのあたたかな感情に、心惹かれてしまう。
他人よりも格段に小さな小さなほんの少しの感情であるのに。
そんなもの。いや、都希が稀にしか見せてくれないその大切な感覚に。
ハッとする。
そして、欲しい、と思う。
私を見て、そのあたたかいものを示してほしい。
欲しい。ほしい。ホシイ。
数字の意味が判明した。まだ確定はしていないが、予想がついた。わかった。わかってしまったのだ。
あの数字は、その生き物の寿命であるということに。その数字の年月日に死ぬということに。
都希はその日、私の家にいた。招いて、庭でお茶をしていたのだ。
天気がいい日で、都希はいつものようにうつらうつらとしながら私のくだらない話に相づちをうっていた。
そのとき、迷い猫が現れた。白地に特徴的な黒斑の猫だ。少し痩せていたが、野良猫であれば平均的。
都希がその猫を見て、
明日の年月日が浮かび上がった。
明日? 明日なにかあるのだろうか。そう呑気に考えた。
次の日に、その猫の死体が見つかった。白地に特徴的な黒斑の、猫。
外傷は少なく、餓死か病死のようだった。
「ああ、そうか」
理解してしまった。
「都希が生き物を見て思い浮かべる数字は、その生き物の死ぬ日、らしい」
私の父親に報告した。
絶句。
長い沈黙。表面的には。
しかし心の中は、お互いにうるさかった。思考が止まらない。
「あの子は……。いい子だ」
父は都希を嫁として認めてくれている。ここ数ヶ月、家族ぐるみで付き合いをしているが、都希の家族は中流階級だが悪くないし、都希自身や家族の人柄はとても良い人たちだ。なので、うちの両親もこの交際に賛成してくれている。
「これは、なんだろうな」
「うちの家系と同じように、特殊な力を持っていたということ、なのでしょうか」
「あの子は、その能力を持っていて、なにも……」
「何も感じない。考えない。……ようにしている」
「かもしれんな。いや、もしかしたら、そういう呪いのような何かなのか」
「だとしても、あの心の動かなさは、異常とも言えます」
目の前の人の寿命が見えたとしたら。
自分だったらどうだろうか。
……怖い。怖いな。
彼女は、次の日に死ぬとわかる猫を目の前に、何を考え感じただろう。
たしか、考えは読めなかった。感情は、あれはたぶん、優しさ。
彼女は、都希は、明日死ぬであろう生き物を前にして、それに対して優しい気持ちを持った。そっと、手を差し伸べて、拒絶されなかったので、刺激しない程度に撫でていた。だけだった。
そんなこと、彼女以外はするだろうか。
私、私だったら。
私だったら、明日死ぬ猫を見たら、可哀想に思い、まず餌を与えるだろう。目一杯、美味しい食べ物を。次にお医者に診せて、怪我や病気をなるだけ治して、他にも猫にとって最善の偽善を施すはずだ。
人に対してもそうだ。好ましい知り合いが一年以内に死ぬとわかれば、私は最善を尽くすだろう。死を回避するために。日付けもわかっているのだから、その日は念入りに気をつけるようにいい含めるだろう。近しい人ならば私自らが側にいて守ろうとするだろう。
彼女は何もしなかった。その数字の意味を理解しているはずなのに。
「きっと、彼女にとっては当たり前のことなのかもしれない。私たちが人の心を読めるのと同じように。寿命をわかるのが。もしかしたら、それを覆すことができない、ということも」
父は苦々しい表情を浮かべた。私も同じ顔をしているだろう。
「と、いうことは、彼女は彼女の家族や友人、儂たちの死ぬ日を知っているということか」
「その日付けなら、私たちも知っていますね。ほら、お見合いの日の数字を覚えていますか。ハハハ、そうか、私は私と父、母の寿命をすでに知ってしまっているのか」
とても、複雑だ。哀しいのか怖いのか嫌なのかお得なのか怒ればいいのか足掻けばいいのか後悔すればいいのか何もわからない。
「儂は、……母さんとお前を置いて死ぬということか」
「順当じゃないですか」
「言うようになったなお前も」
「もう子どもじゃないですからね。……では、いくつか検証はしてみますが。その日まで悔いのないように生きましょうか」
「ああ、まあ未来の計画は立てやすくなったな。それに、彼女に人を会わせれば、寿命を知ることができるというのは、使えるな。使えてしまうな。……母さんには内緒にしよう。墓に入った後もな」
もちろんだ、と返して退出した。
命のタイムリミットがわかる。その力を持ったせいで、都希の思考はあれほどまでに少なく、感情は閉ざしてしまったのだろうか。
それは大いにあり得る話である。
私の祖先にも、人の考えが読めることによって、精神を病んだものは多くいたと伝わっている。
都希は、都希自身の寿命を知っているのだろうか。
ああ、無性に都希に会いたくなった。昨日会ったばかりだというのに。
それと同時に、会うのが怖くなった。彼女と一緒にいるときに、誰かに会えばその相手の寿命を知ってしまう。
いろいろとひとりで考えた結果、これまでと変わらずに都希と付き合っていこうということになった。
私はもう、このときには都希のことを愛していたらしい。
都希から離れる、婚約を破棄する、という考えは微塵も浮かばなかったのだから。
都希には悪いが、密かにいくつか検証をおこなった。
それで以下のことがわかった。
まず、やはり都希の浮かべる数字は命が尽きる日であること。
命の尽き方は、各々異なること。たとえば、病気や怪我、老衰、事故、事件、何がきっかけで何が原因なのかは千差万別のようだ。
その日に死ぬという運命は、変えられないであろうこと。これは今後も検証を続けたい。
都希はまだ女学生だ。卒業したら、結婚しようと約束をしている。
都希の周りの友人関係は恵まれているようだ。友人らは都希が心配で私に会わせろと都希に言ったらしい。
それで女学校の近くに私が出向き、友人たちを紹介してもらった。
『うわぁ、イケメン。嫌味なほどに悪い点が見つからない! 都希の弟くんに訊けばあの名家の跡取り坊ちゃんだともいうじゃない! 都希が食いっぱぐれることはないわね』『でもそんな大きなお家に嫁ぐとなれば、都希は大変だわ! 姑さんとの確執や使用人からのイジメなんてあったらと思うと! ああ心配だわ!』『育ちのいい坊ちゃんかぁ……甘やかされて俺様でマザコンだったら、どうしよ〜〜。都希を泣かせたら許さないわよ。地獄の果てまで成敗しますわよ』
……年頃の女の子は心がとても騒がしいということを失念していた。
水鏡のように波ひとつ立たない都希に慣れた今では、なかなかにキツい。だが、
「都希さんは良いご友人に恵まれているようですね。安心しました。これからも都希と仲良くどうぞよろしくお願いします」
「はい! それはモチロンです。私たちも都希の未来の夫様となる方が遠睦様で良かったですわ。くれぐれも都希をお願いしますわ」『あなたにわざわざよろしくと言われなくとも、都希とは一生友だちよ! 泣かせたら本っ当に許さないんだから!』
思考がわかりやすくて大変よろしいお嬢様方だ。
『泣いてはいないし、都希はよくわかっていないようですけども。脳ミソが足りていない方々から少々イタズラされていることを伝えたほうが良いのかしら。都希はたぶん理由に思い至らないだろうから、誰にも助けを求めないし、この人にも話そうとなさらないでしょうし』『この人から、お見合いで断られたという鼻持ちならない上流のお嬢様方のイヤガラセって辛辣なのよね。悪化する前にどうにかしなきゃね』
ふむ。そんな問題が起きていたのか。嫌がらせを受けていることを、都希は微塵も口に出したり、考えることさえもしないから知らなかった。早めに気がつけて良かった。
私はすぐに行動した。私のほうから事実を把握し、家々に働きかけ、収拾させた。彼女の友人らには事態をすべて話し、今後も何か気がついたことがあれば、相談してくれるように言った。
そのおかげか、都希の周りの人々からの私への評価は上がったようだった。
「都希は、友人に本当に恵まれているね」
「はい、わたしには勿体ないくらいです」
脈絡のない私の言葉に、律儀に都希は返してくれる。
待ち望んだ日がやってきた。結婚式の日だ。
あれから幾日も重ねて紆余曲折あったけれども、ここまできた。いや、これからだ。
なあ、都希。
私はあなたを一生大事にするよ。
あなたの隣に、私がいることをゆるしてくれないか。
入ってきた都希を見る。
綺麗だ。とっても。綺麗だ。
そのとき、都希の心がふわりと上がったのを感じた。
『わたしは、この人と、家族に、なることが、できる』そんな彼女の思考と安心感が伝わってきた。
ああ、そうか、やっと。やっと、彼女は、私を見てくれたのか。
彼女は私が欲しがった彼女の感情を、私に向けてくれた。
「嬉しい」
あたたかい感情をくれるあなたに、私も愛を捧げたい。
新婚生活は順風満帆とは言えないかもしれないが、それなりに上手くいっていた。
彼女は使用人を使うことや、人付き合いになかなか梃子摺っていたようだが。私や母が最大限に助力して、人並みにこなせるようになっていった。今では来客の挨拶を任せられるほどになったのだ。ありがたい。
あまり良くないとは思いつつも、重要な取引相手などの人物にさりげなく都希を会わせた。そしてその人らの死期を知り、今後の計画を調整させてもらった。そのおかげか、私の会社はさらに拡大している。
夫婦といえば、夜の生活のほうも順調だ。感覚が鈍い彼女に、ついついからかってどう感じるか考えてもらったりしてしまう。私が言うことやることすべてに応えようとしてくれる彼女は、とてつもなく愛おしく可愛らしい。
という感じに、やることやっていたら、息子ができました。可愛い可愛い我が子。都希の“ツキ”に私の遠睦の“ト”の音から、月都と名付けた。月都は私よりも長く生きるようで、安心した。先に逝ってしまうけど、待っているからな。なあんて、生まれたばかりの我が子を抱きながら思うことではない。
都希は情緒教育が自分にはできないのでは、と思い悩んでいたようなので、乳母をつけることにした。私が探す前に私の母がすでに見つけてきていたのは驚きだ。母は都希がよっぽど気に入っているようだ。
この頃からだろうか。
否、出会う前からだろうか。
都希の意識がぼんやりとしすぎてしまうことが、だんだん増えていった。
霧が濃くなっていくように、まるで雲をつかむように、都希の心が見えなくなる。ココにいて、ココにいないかのような。そんな、心地で。
私は怖くなる。私の大切な妻が、私を置いてどこかへ行ってしまうのではないかと。
あなたは今、どこにいるのですか? 何を想って、何を考えて、何を感じているのですか?
知りたくないことまで知ってしまう私の、知ることのできないものが、自身の妻の心だけである。それは何という不幸で、惹かれるきっかけになったものであるというのに。こんなにももどかしく感じるのだろうか。
私以外の人は。心を読むという変な力のない、人たちは。
どうしているのだろう。どうやって他人が考えていることを、考えるのだろう。どうすれば感情を推測できるのだろう。
わからない。
愕然とする。
私は、こんなこともわからなかったのだ。何十年も生きてきて。
わからない、ということに気がつかなかったのだ。
私は生まれたときから他人の心が読めた。何の障害もなく。それは父も私の息子も同じで。当たり前で。
他人の思考なんてものは勝手に頭に入ってくるもので。自分から想像したり考えたりしなければならないとは、知っていてもやったことは一度もなかった。
他人の感情も手に取るようにわかるので。相手の立場になってみることも、推察することも、知識の上では覚えていても、実践したことはない。
「そう、か。こんな当たり前のことに今頃気がつくなんて。私はまぬけだな。これでは妻の気持ちひとつわからないのも無理はない……か。気がつかせてくれて、ありがとう都希」
妻の反応は、薄い。遠くのほうにいるようだ。
現実感が薄い。都希は一度、その言葉を口にしたことがある。きっと、そうなのだろう。彼女は、今はふわふわとした雲の中なのだろうか。
都希はぼんやりとすると、表面的には通常の生活を送っているように見えるのに、会話の受け答えが曖昧になる。ルーチンワークはできるが、咄嗟の判断や行動は非常に緩慢になる。私や月都は考えを読むことができにくくなる。
私はそんな彼女のそばに時間の許す限り寄り添った。
未だに彼女の寿命はわからないのだ。もしかしたら彼女自身は知っているのかもしれないが、それを一度も考えようともしないのだ。だからわからない。私の最愛の人が、いつ私の手の届かぬところへ行ってしまうのかが。
都希が、命の期限がわかるということが、判明するまで、寿命なんてものを気にしたことはなかった。知りたいとも思わなかった。
それが今では知り合いのほとんどの人の寿命を把握している。笑えてくる。呆れるほどに笑える。自分はどこまでも、自分と都希の変な力に振り回されている。
そうであるのに、私は都希のことだけがわからないというのは、天罰なのだろうか。
「母さんが、わからないっ! 母さんは、ぼくのこと、きらいなの? 母さんはぼくのことが、すきじゃないんだ! ぼくを、見て! ねぇ!」
息子の月都が叫ぶ。
都希の意識が、ふと浮上した。『好き……てなんだろう?』そんな言葉の哲学をやっている場合ではないのに、都希の思考は霧に包まれていく。
息子は、自分が、周囲の人の心が読めることを理解したばかりだ。それなのに、肝心の、一番大好きな、母親の心だけが読めなくて不安になったのだろう。私と同じだ。ああ、同じだ。
私は息子の月都にこう教えた。
母さんは、愛情を示すのが下手くそなんだ、と。
私たちの心を読む力は、あくまでも心の表面、現在思考中のことしか読めないのだ。心の奥底に秘めていることは読みにくい。
母さんは、都希は、珍しいことに、心が読みにくい人間なのだ。表面に考えを、月都への愛情を表すことが苦手なのだ、と。
苦手なだけで、母さんは月都のことが大好きで、愛しているし、月都をよく見ている。だから母さんを疑わないで。母さんの気持ちを考えてごらん。
私は自分も思い悩んだことを棚に上げて息子を諭した。今はわからなくても良い。いつか、いつの日かわかるときがくるから。
母さんを信じてあげて。
月都は良い子に育った。
少々危なっかしい母親を気遣い守れるようになった。
精神と一緒に背もよく伸びた。
そろそろ、反抗期か思春期に入るだろう時期になる頃。
都希は、あっけなくこの世を去った。
その日はいつも通りで。
でも、月都にもひさしぶりにいってらっしゃいのチューをしたり、使用人たち個々人に一言お礼を言っていたり、些細な予兆はあったようで。
都希の部屋で『ありがとう』と書かれた紙を見つけて確信した。
都希は自身の死ぬ日をやはり知っていたのだということを。
こんなにも、早く。月都もまだ成人していないのに。私もまだまだ一緒にいたかったのに。
先に天にいってしまうなんて。
単身事故というのかな。何もないところで、ひとりで転んで頭を打って。なんて。バナナでもあれば、私はバナナを恨んで生きていけるのに、何の原因さえもなく、ただの不注意って。私はあなたを喪った哀しみにだけ暮れてしまうしかないじゃないか。
ずるいなぁ。ははは。勝てないなぁ。
ああ、さみしいよ。あなたがいないと、こんなにも、さむい。
都希は最期の最期まで、不思議な人で、面白くて、綺麗で、可愛くて、私の唯一の愛しい妻だった。
あなたの最後の卵焼きはとてもきれいで美味しくて、ありがとうを言いたかったのに。
私と都希の家族の誰よりも一番にいってしまった。そうか、だからか。親しい人の寿命を見ても何も思わなかったのは、都希自身よりもみんな長生きするとわかって、逆に安心していたのか。
あなたはどこまでも優しくて。あたたかくて。不思議な人で。
もしもまた逢えるのならば、お互いに今度は何の力も持たぬままに、あいたい。