ひと夜の契り
「宵闇を、貴方に」
一人の少女が僕に囁いた。それでこそ、闇夜に溶け込むような静かな声だった。
現時刻は午前二時、僕はいつの間にかどこかも解らない森の中にいた。ここには僕と少女の二人だけしかいない。
少女は顔に半分だけの狐の面を被り、真正面で僕を見つめている。僕は時刻と場所の関係で多少の恐怖心をいだいている。だが少女は僕にこう言った。
「恐がらないでください。貴方には誰も被害は加えません。むしろ――」
少女の右手が夜空を仰いだ。
「――今宵の月が、貴方をいずこへと導くでしょう」
この時点では、僕はその言葉の意味が解らなかった。ただ今だけは、この静寂なひとときだけが、僕達を包み込むだけだった。
――僕達は今、どこへ向かっているのだろう?
深い森はどこまでもどこまでも続いている。まるで僕達を隠すように。僕は少女にこう訊ねた。
「僕達は今、どこに向かっているの?」
当たり前すぎる質問に、少女はこう応えた。
「今はまだ秘密です」
まるで言葉遊びとも捉えられるこのやり取りに対して、だが僕はいつの間にか自然と落ち着いた気持ちになっていた。
「ひょっとして、キミが僕をこの森に連れて来たの?」
あり得るがずがない、突っ拍子もない質問を投げ掛けた僕に、しかし少女は笑わずに、そして真面目に、僕にこう応えてくれた。
「それを決めるのは貴方自身です。私とのこの出会いが真か、或いはただの夢か、全ては貴方が決める事」
僕の手を優しく握り、こちらを向かずにただ真っ直ぐな足取りの彼女を見つめながら、僕はこう思った。
――優しいけど、厳しいんだな?
そんなどこにでもありそうな矛盾した考えを頭に浮かべながら、その深い闇はだんだんと晴れていった。
そして、そこに見えたのは、
「これは……」
美しく輝く海。そう、僕達が今いるのはやはりどこかも解らない丘だった。そこから綺麗な水面が見え、そこで初めて、僕はある事を思い出す。
――そういえば、これって夢だよな?
自分で言ってはおかしいが、僕は確かにあの時就寝した記憶がある。確か二時間前だったはずだ。その後誰かに呼ばれたように思い、目醒めたらあの森の中でこの少女と出会ったという訳だ。
「……なるほどね、そういう訳か」
そして僕は改めて少女に質問した。
「今更だけど、僕に何の用?」
そう質問した僕に、少女はこう応えた。
「今宵の月は美しいですね?」
それは僕の質問の応えには一切なっていないものだった。しかし何故だろう? 少女の言葉には優しさがあり、僕はその優しさがとても好きだった。
「そうだね」
白い満月が僕達二人を優しく照らし、僕は少女の表情を目の当たりにした。
「キミ……」
少女はその綺麗な目から大粒の涙を流していた。理由は解らない。だが、正直僕が何かしたという訳でもない……はずだ。していない。しかしそれでも根拠がもてない。そんな僕に、少女は僕の心を読み取ったのかどうなのか、こんな質問をしてきた。
「貴方は、過去の過ちを悔いた事はありますか?」
「いきなりどうしたの?」
僕のその質問に、少女は初めてその面を取り、『それ』を露わにした。
「私は忘れません。絶対に」
その面の下に見えたもの、それは赤黒く爛れ、眼が抉り取られた醜い顔だった。
「……その顔は……」
「醜いでしょ? この顔のせいで、私は生きる事を諦め、自殺し、地縛霊となり、この森で何年も彷徨っていました。彷徨い続けて嘆いて苦しくなって、最早どうのしようもなくなっていました。だけど、もうこの苦しみにも飽き飽きしているのです。だから――」
耳を塞ぎたくなった。顔を背けたくなった。いやむしろ、もうこの場から逃げ出したかった。それなのに少女の両手が僕の頬を包み込み、その静かな怒りで僕を押さえつけているせいで、僕はどうしても少女から逃れる事が出来なかった。
いや、逃れる訳にはいかなかった。
少女が……彼女が僕を求めていたから。
「――お願いだから、私を助けて……」
頬を包み込んでいた小さな両手は握り締められ、その拳が僕の胸を何度も叩き、うずめた顔が僕の衣服を濡らしていく。間違いない、これは正真正銘僕の夢だ。そう理解した僕は、少女の肩を掴み、僕に向き合うように身体を放した。
「僕一人じゃキミを助ける事は出来ない。だけど、一つだけ出来る事はある」
そう言って少女の手を取り、
「来世では、きっと友達になろう」
少女の小指と僕の小指を結び、約束の契りを交わした。
「こうすれば、きっと僕達はまた会える。どんな形であれ、どんなふうであれ、きっと」
僕は余り笑うのは得意ではないが、今回だけは懸命に満面の笑みを浮かべてみた。
「……はい!」
ピピピピ、ピピピピ。
「……」
寝起きのせいで身体が怠い。そのうえ今日からまた学校生活が始まる。ハッ! 考えただけで気分が悪くなるね。
なんて言ったところで仕方がない。僕は諦めて着替えを済ませ、身支度を整えた。
その後、出掛ける間際、僕の携帯に一通のメールが届いた。宛名はなく、内容は一言、こうだった。
『今日も一日、頑張ってください』
「……へっ」
誰からかは解らないが、それでも僕は、これがとても大切なもののように思えた。
例えば、あの晩のあの子とか……。