75-2 悪役令嬢は入試の心配をする(裏)
ハロルドお義兄様は相変わらず壊れています。
【ハロルド視点】
私がハーリオン侯爵家に戻って二か月が経った。戻ったと言っても、以前ここで暮らしていた記憶がないため、懐かしい我が家に戻ったという印象はない。唯一懐かしさを感じたもの、それは妹・マリナの微笑だった。
「……お帰りなさいませ、お兄様」
記憶を失くして帰ってきた私に、彼女はそう言って頭を下げた。
しばらく物言いたげに見つめていたが、私にはその視線の意味が分からない。
――何か、胸騒ぎがする。
胸騒ぎと言っていいのだろうか。彼女が私を見る時、私の中に捉えようのない気持ちが頭をもたげる。
朝食時間に顔を合わせる度、廊下ですれ違う度、堪らなく嬉しさがこみ上げる。他の妹達や弟のクリスには感じない何かを。
◆◆◆
「出かけるところですか、マリナ」
廊下を早足で歩く彼女を見つけて声をかけた。マリナははっとして私を見る。
「ええ。王宮へ参ります」
「……また、セドリック殿下の呼び出しですか」
「呼び出し、などと……」
「呼び出しですよね?理由をつけて、三日と空けずにあなたを王宮へ招いているのに。王族の招きを断れないと知っていながら」
「そんな……セドリック様には他意はないのですわ。あの通り、世間知らずの呑気な方ですから」
チリッ
私の胸が小さく痛んだ。
――それほどまでに、王太子をかばうのか?
彼女は王太子妃候補になる。王太子に肩入れしてもおかしくはない。
「随分王太子殿下と仲良くなったのですね」
「……は、はい……」
私が笑いかけるとマリナは俯いた。
「正式に王太子妃候補としてお披露目される日も近いのでしょう?殿下はあなたにご執心のようですから」
「私は……」
マリナは何度も瞬きをして、ふと笑った。
「馬車を待たせておりますの。行ってまいります、お兄様」
美しく礼をして私を振り返ることなく行ってしまった。
◆◆◆
父が私に家庭教師をつけた。記憶をなくす前も教わっていたらしいが、忘れてしまったものもあるだろうと言われた。ダンスの練習もその一つだが、私は脚があまり上手に動かせないためパートナーをリードするのは難しい。一人で練習しても時々ふらついてしまった。
ダンス教師は私がダンスを上達させるには、パートナーとの練習が必要だと言った。実際に舞踏会に出たら、パートナーを変えながら踊るのだと。
「……私が、お兄様のパートナーを?」
私のパートナーに指名されたマリナは、ダンスホールに呼び出されて困惑していた。
「ええ、そうよ。四人のうちであなたが一番安定しているもの」
ダンス教師は彼女達にもダンスを教えている。実力も十分把握した上で、マリナがパートナーにいいのではないかと私に打診した。私は一も二もなく賛成した。何故だか彼女と踊りたかったのだ。
「お兄様の脚は大丈夫なんですの?」
彼女は私の脚の心配をしていた。その様子に既視感を覚える。
「心配ありませんよ。長時間踊るわけではありませんし。そうですよね、先生?」
マリナと踊れるなら、脚の痛みも忘れてしまうだろうと思う。
ホールの真ん中で彼女の手を取る。
「よろしくお願いします。……一曲、踊っていただけますか」
「ええ、喜んで」
踊る以外の選択肢はない。彼女が私の誘いを承ける前に、私が手を取っていたのだから。
曲が進むと胸が苦しくなってきた。脚が痛むわけではない。彼女とダンスを踊った記憶が微かにオーバーラップして心がざわつく。
「……お兄様?脚が痛むのですか?」
「いえ。脚は痛みません。……ただ」
――このまま、あなたを独占していたい。
独占したい?妹を?
妹を大切に思うのは構わない。当然のことだと思う。
彼女はいつか私の傍を離れていくのだ。王太子の元へ嫁ぐのだから。
――行かせない。何処にも。
マリナ、あなただけは失いたくない……。
王太子の目にも、誰の目にも触れない、二人だけの空間に閉じ込めてしまいたい。
「いや、何でもありませんよ」
――私は、今、何を?
私は彼女のいい兄でいなければならないのに。
仄暗い気持ちに気づかれないよう、慌ててマリナの手を放した。




