437 悪役令嬢と頼もしい背中
エレベーターに乗っている時のように身体が一瞬浮き上がる感覚がした。
マリナは自分がどこを向いているのか分からなくなり、天地がぐるぐる回っているように思えた。鏡が光っただけだと思っていたが、一体何が起こったのだろう。ふわりと浮かび上がったかと思うと、急に重力に引かれる。手に触れたものを無我夢中で掴んだ。
ドサッ。
左半身に衝撃を覚え、辺りが眩い光に包まれていないと気づく。右手は何かをしっかりと握ったはずなのに、掴まることもできずに落ちたのだ。
――落ちる?ビルクールの事務所にいたのに、どこに落ちるの?
混乱している頭をフル稼働して、ゆっくりと目を開けた。
――え?
目の前に、それも鼻先が触れそうな距離に、見覚えのある顔がある。長い睫毛は金色、すっと通った鼻梁、ほんの少し厚めの唇。マリナは驚きはしたが、この状況を少しでも長く感じていたいと思った。声を出さずに、彼の睫毛が揺れ、海の色の瞳が開くのを待った。
「……ん、う……ん?」
セドリックは何度か瞬きを繰り返した。彼も目の前の状況が信じられない様子だ。
「マリナ……?」
がばっと身体を起こし、素早い動作で辺りを見回す。マリナの背に腕を回して抱き起こすと、
「あっ!」
と言って即座に数メートル離れた。
「大丈夫?僕と近づいたら……」
「それが……先ほどから、全く」
マリナは自分の胸に手を当て、何度か深呼吸を繰り返す。
「息は苦しくないの?心臓がドキドキしたりしない?」
ドキドキしたかと訊かれれば、目の前に彼がいると分かった瞬間に、一度大きく心臓が跳ねた。だが、『命の時計』の魔法による動悸とは違う。
「久しぶりに……二人きりでドキドキします」
小さな声で告げると、セドリックの頬に一気に赤みが差した。
「そ、そっか……僕もだよ」
眉を下げて情けなく笑う。
「ねえ、近くに寄ってもいいかな?……ぅわっ!」
セドリックが近寄るより先に、マリナは地面を蹴って走り、彼の首に抱きついた。
「魔法が……きっと魔法が解けたのですわ!」
「……あ!あの鏡が?」
「鏡?何のことですの?」
◆◆◆
「王宮には不思議なものがあるものですね」
町の中心部へ向かって歩きながら、セドリックは事の顛末を話した。
「レイが無事か知りたくて、僕は大きな鏡の前に立ったんだ。……少しだけ君のことを考えてしまって、そうしたら鏡に映っていたのは僕の顔じゃなくて、君だったんだ」
「私はビルクールの港の事務所で、大きな姿見を覗いて……セドリック様が映ったと思ったら、こんなところに」
「マリナ、君はこの場所に覚えがある?」
「いいえ。どこかの町のようですけれど、その……こう申しては何ですが、いろいろと時代遅れのものがありますわね」
いくつかを指さしてマリナは彼に同意を求めた。家々の造りも古く、王都のみならず郊外でも見なくなったような粗末なものだ。
「グランディア国内にまだこのような場所があったなんて。僕は何を見ていたんだろう」
「ここがグランディアだと何故お分かりになりますの?」
「店の看板に書かれているのはグランディア語に見えるよ。……ん?いや、少し違うかな」
二人は首を傾げた。看板に書かれた文字はグランディア語の文字に見えるが、綴りが若干異なっている。同じ文字を使うアスタシフォンは全く単語の綴りが違うが、見たことがないものだ。
「まずは王都へ戻る方法を探しましょう。セドリック様は有名人ですもの、すぐに協力者が現れますわ」
「王族でよかったと思ったのはこんな時……と、君の婚約者になれたことくらいかな」
「取ってつけたように仰らなくてよろしいですわよ。それに、私は妃候補では……」
言い淀むマリナの手をセドリックは固く握った。
「僕は君以外を妃にするつもりはないと言ったよね?……行くよ」
町の中心と思われる大きな通りへ差し掛かり、二人はすれ違う人々にじろじろと見られていた。町の人々は木綿か麻でできた生成り色の服を着ている。草花を原料にした染料で赤や緑に染めてはいるが、セドリックとマリナが纏う服のような色鮮やかさはない。絹のドレスを着ているマリナは完全に自分が場違いだと気づいた。
「視線が気になるの?」
「ええ……」
「堂々としていたらいいよ。王都から来たと言えば、服装の違いは納得してもらえるよ。あそこに神殿があるね。神殿には王都や近くの大都市までの転移魔法陣を置いていることが多いから、行って話してみよう」
◆◆◆
神殿は遠くから見た時は薄茶色の壁をしているのだと思っていたが、実際に傍に立つと、白い壁にびっしりと蔦が這い、互いに隙間なく絡み合っていたのだと分かった。蔦が枯れて壁が茶色に見えるのだ。
「随分古そうだね」
アーチ型の扉に触れたセドリックは、縁が朽ち始めていて手に棘が刺さるのではないかと思った。マリナには触らせたくないと、大きく扉を開いて彼女を招き入れる。
「……暗い、ですわ」
扉から奥の祭壇までは、神殿らしく青い絨毯が敷かれていたが、染みだらけで歩くと埃が舞い上がった。掃除がされていないのは、神殿に通う信徒が少ないからなのだろうか。
「神官の姿が見えないが……」
ステンドグラスから僅かに差し込む光を頼りに、セドリックは奥の様子を窺った。
「誰だ!」
突然、二人の背後から鋭い声が響いた。
マリナは雷に打たれたかのように身体を震わせて、セドリックの傍へと駆け寄った。
「誰か来たようです」
「……心配はないよ、マリナ。僕に任せて」
トン、と肩に置かれた手が、不思議とマリナの心を軽くした。頼りない王太子の背中がとても大きく見えた。
「勝手に入ってすまない。私はセドリック。グランディア王国第六十三代国王、ステファン四世の息子だ。魔法事故でこの町へ飛ばされてしまった。こちらの神殿の神官にお会いしたいのだが」
開け放たれた神殿の扉から光が入り、立っている者の姿は逆光で見えない。背の高さと声から男だと分かるのみだ。
「……国王の、息子だと?」
男の低い声が聞こえた。
「国王陛下のお名前はウィルフレッド様、初代国王陛下から数えて十九代目だ。……いい加減なことを言うな。怪しい奴め!」
「ウィルフレッド……嘘だ、そんな!」
セドリックが悲痛な叫びを上げた。男は両手で魔法球を発生させた。
「セドリック様、危ない!」
「来るな!」
自分を庇おうとしたマリナを抱きしめて、セドリックは蹲って目を閉じた。




