425 閑話 執事の回想
【エイブラハム視点】
うちの坊ちゃんは鋭い。
山道を縫うように馬車を走らせた俺に、通ったことがあるのだろうと訊いて来た。
「上手すぎるからな、俺。御者に転向しようかな」
と適当に誤魔化したものの、坊ちゃんはまだ疑いの目を向けてくる。将来は国政の中心を担うだろうし、これくらい疑り深い方がいいんだろうな。
「……まあいい。無事に邸に帰れたら詳しく聞かせてもらうぞ。コレルダード出身だというのも大方嘘だろう」
ぎく。
動揺を悟られないように笑顔笑顔、っと。
馬車の様子を見るのを口実に、俺は神殿から出た。
六年前、俺がここに来た時は、あの神官はいなかった。
もっと年寄りの、腰が曲がったじいさんだった。ついでに耳も遠かったっけ。
「懐かしいな……」
過去のことにしようと、精一杯強がって呟いた。
――胸が、痛い。
まだ、あれを過去にはしたくないと、俺の心が叫んでいる。
◆◆◆
オードファン家に務める前、俺はある貴族の邸で雑用兼用心棒のようなことをしていた。仕事もなくノーゼウィンクの町をぶらぶらしていた時、コレルダードへ向かう貴族の一行が強盗に遭っていたのを助けたら、「仕事がないならうちに来なさい」となったのだ。
俺を雇ったのはある男爵で、領地はコレルダードから東に少し行ったところにあった。家族は妻と娘と幼い息子、使用人も十人もいないような邸に連れて行かれた。喧嘩の強さには自信があったから、用心棒はできるとしても、基本的なマナーが身についていない俺に従者の真似ごとをさせるのは無理がある。それでも旦那様は根気よく俺に教えてくださったし、給料が上がると聞いて俺は必死に勉強した。
お邸に勤め始めて、三年が経った頃だった。
友人同士のように打ち解けてくださっていたお嬢さんが、俺に頼みがあると言って図書室に呼び出した。
「リングウェイまで、馬車を走らせてほしいの」
ノーゼウィンク出身の俺が、リングウェイまでの道を知らないはずがないと思っているのだ。そんな遠くまで出かけたら、当たり前だが日帰りはできない。どういうつもりか尋ねると、彼女の答えは明白だった。
「神殿で、永遠を誓い合いたい方がいるの」
ああ、駆け落ちか。
リングウェイは昔、駆け落ち婚が多かったから、そこで形式的に結婚すれば、双方の家族が許してくれる。お嬢さんにはそんな相手がいるのだ。両親に連れられて出席したパーティー以外は、邸から滅多に出て行かないのに。
黒い気持ちが胸に渦巻いた。
俺がうんと言わなければ、お嬢さんは父親が決めた相手と結婚する。この間、邸を訪ねて来ていた四十かそこいらの男だ。旦那様より年下だが、親子ほど歳が離れている。前妻の娘であるお嬢様に対する奥様の嫌がらせではないかと思ったほどだ。
「俺が、行かないと言ったらどうするんです?」
「……あなたのせいだと遺書を残して死ぬわ。首になりたくなかったら、さっさと馬車を出して頂戴」
気が強いところが可愛い。俺が絶対折れると確信している。
「お嬢様を連れて行っても、俺は首になりますよ」
「不名誉な首より、私を幸せにして首になるほうがいいでしょう?」
幸せそうに笑うお嬢さんは、俺の気持ちには気づかないで、一生気づかないで生きて行くのだ。渋々馬車を回し、街に買い物に行くふりをして郊外へと走らせる。侍女は連れていない。ついて行くのは俺だけだ。
コレルダードを過ぎ、いくつもの町や村を通り、太陽が森を黒く町を赤く照らしながら沈みかけた頃、御者席の背後で物音がした。
「停めて、エイブラハム」
「日が暮れる前に大きな町まで行きたいんですよ。もう少しですから、辛抱なさってください」
「お願い、停めて」
後ろから声がして、俺は小窓からお嬢様の様子を見た。悪路が続いていたから、乗り物に酔ったのだろうか。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
ドアを開けて中の様子を見る。反対側の壁に凭れている彼女は、俯いて動かなかった。
「飛ばしすぎたっすかね?少し休みましょう」
「……いいわ」
「じゃ、休憩ってことで」
「いいのよ。馬車を出して。エイブラハムは私のために急いでくれたんだものね」
「あ、いや……お相手がお待ちでしょうし」
やっと顔を上げて、お嬢様は俺に向かって微笑んだ。
――この笑顔が俺のものになったらいいのに。
初めて会った日から、ずっと心の奥で願っていたんだと気づいた。
「早く厄介払いしたいんでしょう?」
「厄介だなんて。俺はあと何日でもお嬢さんと一緒に、こうして馬車を走らせてもいいと思ってます」
「え……?」
驚いた顔のお嬢さんを残し、俺は再び前に回った。馬を走らせると、急に恥ずかしくなってきた。神殿で恋人が待っているお嬢さんに、俺は何を口走ってしまったのだろう。混乱させるだけだろう?迷惑に決まっている。
――よし、これからリングウェイまでは、口を利かないでおこう。
ノーゼウィンクからリングウェイまでの道は、馬車がぎりぎりすれ違える細い山道だった。両親を亡くした俺を育ててくれた伯父に連れられ、荷馬車で何度も往復した道だ。伯父は、王都から買い入れた日用品を魔法陣でノーゼウィンクまで運び、その先の小さな町や村で売り歩く仕事をしていた。おかげで近くの町までの道は完全に頭に入っている。難所と言われる九十九折の道も、難なく馬車で進む。できるだけお嬢さんが酔わないように気を付けた。
森を抜けて、切り立った岩壁伝いに作られた道を進むと、リングウェイの町が見えてきた。
「お嬢さん!もうすぐつきますよ」
口を利かない誓いを忘れて、嬉しくなって叫んだ。
彼女が他の男のものになるのに、ここまで連れてきて幸せにしてやったのが自分だと思うと、嬉しくて仕方がなかった。
「神殿へお願い」
「あいよ!」
「……嬉しそうね、エイブラハム」
「お嬢さんが幸せになるんですから、嬉しいに決まってます」
「そうね。あなたは私の兄弟みたいだったものね」
――兄弟宣言されたら、何も言えねえよな。
「はは。……あ、あれ、見えます?この道を真っ直ぐ行った突き当たり。あれが神殿ですよ」
緊張した面持ちのお嬢さんの手を取って、誰もいない神殿の中に入った。
「早く来すぎたみたいっすね」
相手が来ていないのは、すっぽかされたのではないはずだ。わざと明るい声で言い、お嬢さんの背中を叩いた。
「……」
「心配いりませんって。お相手の方もすぐ、あー、そのうち来ますよ」
「来ないわ」
「そんな悲観的にならなくても。ちょっと遅れてるだけでしょ」
「来ないのよ。相手が待ってるなんて、嘘なの」
「お嬢……」
「あなたとここに来たかったのよ、エイブ。……ごめんなさい。あなたを脅すような真似をして」
呆然とする俺の前で、お嬢さんはまた悲しげに笑った。
「ありがとう。……大好きだったわ」
――過去になんかさせるかよ!
言い終わらないうちに、俺は彼女を抱きしめた。
「……俺は、今もこれからも、お嬢さんが好きだ。ここで待ってる誰かと一緒になっても、あんたを想っていくつもりだった」
「エイブ……」
「俺と、ここで誓ってくれますか。マギー」
「もちろんよ!」
お嬢さんが首筋に抱きついたのを合図に、俺は神殿の奥に向かって声をかけた。すぐに年寄りの神官が杖をついて現れた。着崩した法衣を見れば、自分の身支度もままならないようだ。
「結婚許可証はあるかね?」
「ありません」
「ふぅむ。……正式な結婚とは見做されないが、それでもいいのだね?」
「……構いません」
頷いた俺達に、老神官は目を細めた。彼女の服装から、貴族の令嬢だと判断したのだろう。俺に憐みの目を向けた。
「命がけじゃな」
◆◆◆
契約の神の御前で、俺達は夫婦になった。
老神官が神殿の奥から質素な指輪を持ってきて用意してくれた。擦り傷だらけの男物の指輪は俺の指には小さく、紐をつけてペンダントにした。少し変色している女物の指輪をマギーの指にはめ、そっと触れるだけのキスをした。
それが、最初で最後のキスだった。
男爵家から捜索願が出たことで、騎士団や兵士が俺達を探していたのだ。男爵家の馬車を目撃され、すぐに連絡が行ったのだろう。大勢の男達が神殿になだれ込んできて、男爵令嬢マーガレットを保護し、誘拐犯の俺を捕縛した。神殿内から連れ去られる時、マギーの声を聞いたような気がした。
何度か殴られ、意識が戻った時、俺は眼鏡の奥の緑色の瞳に見つめられていた。
「あ……う……」
頭が痛い。ここはどこだ?寝心地がいいベッドの上だというのは分かる。
「マギー……?」
「無様だな」
「だ、誰だ?」
「お前から名を名乗れ」
「エイブ。……エイブラハム・メイシュナー」
「俺はフレデリック・オードファン。グランディア王国の宰相の任にある者だ」
「さいしょう?」
「貴族を誘拐した者は、理由はどうあれ死罪だ。陛下の方針で、滅多なことでは公開処刑はしないが、事の重大さを鑑みて法務担当の執政官から私の裁可を求められた」
「えっと……すんません、よく分からないです」
男は盛大に溜息をついた。尊大な態度ではあるが、全て隙がなく洗練されている。かなり高い身分なのだと想像がつく。
「それで、だ。私はお前を拾うことにした」
「は……?」
「エイブラハム・メイシュナーは死んだ。書類上はそう整えておく。お前は私の家で執事として働くのだ」
「執事……って、俺、従僕も満足にできないっすよ?」
「聞けば用心棒のようなことをしていたそうではないか。神殿でも兵士相手に大立ち周りをしたそうだな。頼もしい限りだ。動けるようならすぐに邸に行くぞ」
俺の意向などお構いなしに、旦那様はオードファン邸に俺を連れ去った。
◆◆◆
シャツの胸元を握りしめる。
革紐で下げた指輪が肌に当たって冷やりとした。
――また神殿に来ちまうなんてな。
敢えてマギーの消息を知ろうとしなかった。俺は死んだことになっているし、ひょっこり現れても迷惑だろう。近況を知れば何より、俺が彼女に会いたくなってしまう。
苦笑いをしながら馬の鼻先を撫でる。ふと、神殿を囲む生垣の向こうに目をやると、黒い服の集団がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
23時公開にするつもりが普通に投稿してしまいました。




