386 悪役令嬢と傷ついた証人
光魔法球が弱々しく輝き、大理石が敷かれた廊下は暗い。窓の外は漆黒の闇。遠くで狼の遠吠えが聞こえる。
執事がドアをノックする。
「旦那様、ご令嬢をお連れしました」
「……入れ」
ドアを開け、中に入るように促され、少女は一歩踏み出して息を呑んだ。
「どうした?」
椅子に座って机に肘をつき、さも愉快だと目を細めた男に、少女は頭を振って答える。
「いいえ。何でも」
「……急に呼び出して悪かったね。こんな夜中に」
「魔法陣がありますから、苦になりません」
「そうか。では、本題に入ろう」
「我々は仕上げに入っている」
椅子から立ち上がった男は、机の上にあったチェス盤に手を伸ばした。綺麗に並べられていた駒が一つずつ、長い指先で弾かれ倒されていく。
「……君の作業だけが遅れている自覚はあるか」
「あっ……それは……」
「手緩いと言っているんだ。我々が周りを固めても」
カツン。
クイーンの駒が弾かれ、床に転がる。
「肝心の君が、最後の一手を打てないようでは困る」
コロコロコロ……ガッ。
男は転がったクイーンの駒を足で踏んで止め、優しく拾い上げて手に握りしめた。微かに緩んだ口元に、少女は狂気を感じて慄いた。
「私の盤上には、キングは不要なんだよ。分かるね?」
「……は、はい」
「私も彼らも、クイーンが手中に堕ちて来さえすればいいのだよ。キングなどどうでもいい。君が後片付けをしてくれないと、面倒なことになるだろう?」
「私、後片付けなんて……」
「王位が手に入ればそれでいいと言ったのは誰だ?王位を手に入れるには、王も王妃も、王太子も邪魔な存在だろう。生かしておいても何の得にもならないぞ」
「殺せと仰るのですか?」
「……さあ?」
視線を遠くへ向けて、男は曖昧に微笑んだ
「まだ剣が揃わない。……君のすべきことは分かるな?」
男は腕でチェス盤の上を薙ぎ払った。ガラガラと音を立ててクイーン以外の駒が落ちる。
「はい……」
「ふむ、物分かりがいい娘は嫌いではない。……せいぜいうまく立ち回れ。クイーンの周りに駒は要らないのだ」
美しい顔を悪魔のように歪めた男に一礼すると、恐怖で高鳴る胸を押さえて少女は部屋を後にした。
◆◆◆
ドオオオオン!
「また火が出たぞ!」
「今度は第四工場だ!」
「もうダメだ……皆焼けちまう!」
労働者達が口々に悲しみの声を上げる。アレックスは怪我をした男と共に、建物の間に座っていた。
「……逃げろ、俺のことはいいから」
背中に割れたガラスが直撃し、シャツが血で真っ赤になっている。壁に頭をつけて身体を凭れさせ、はあはあと肩で息をしている。顔色は真っ青だ。
「置いて行けねえよ!ブルーノ!いきなり連れて来られた俺に、親切にしてくれたのはブルーノだけだ。恩人を見捨てたりしない」
「ハッ……いつまでも威勢がいいな、アレックス。だがな、俺はいい奴じゃない。お前を誑し込んで、自分の仕事を押しつけようとしていたかもしれないんだぜ?」
「俺は押しつけられてない。ブルーノは俺が失敗してもかばってくれただろ?いい奴じゃない?どこがだよ。……なあ、もう少しだけ、火から離れよう。歩けないなら、俺が背負って……」
ブルーノはゆっくりと首を振った。
「馬鹿を言うな。お前だって、脚に怪我をしてるじゃないか」
「こ、こんなの、痛くないからな!」
「……アレックス、頼みがある」
「何だ?何でも言ってくれ」
首の後ろに手を回し、ブルーノはシャツの襟元からペンダントを出した。
「……これを」
「ペンダントか?」
「中に……写真がある。コレルダードにいる、アントニアに渡してくれ」
「おい、ブルーノ!自分で渡せばいいだろう?もうすぐここから……」
「出られるもんならとっくに逃げてる。俺は逃げる力もねえ。出口もない塀の中で、火に巻かれて死ぬ運命なんだ」
「気弱なことを言うなよ、ブルーノ。……ブルーノ?おい、しっかりしろ!」
◆◆◆
爆音の合間に、アレックスの声を聞いた気がして、ジュリアはふと立ち止まった。
「レイモンド!こっち!」
「待て、向こうは火事が……」
「こっちなの!お願い、一緒に来て!」
ジュリアには理屈が通じないと分かり、レイモンドは彼女の後を追った。
通りは閑散としていた。
逃げられる人々は皆、街を捨てて逃げて行ったようだ。一ブロック先に燃え盛る工場がある。手前にある事務所の建物に延焼すれば、じきにここも火の海だ。
「ジュリア、アレックスは?」
「こっちから声がしたの。一瞬だったけど、絶対に……アレックスの声だったのよ」
街角に立つ案内図を確認して、レイモンドは爆発があった方向を見た。
「向こう側から順に、一から六まで工場があるようだな。最初に火が出たのが第一工場、現在地がここだから、俺達は第四工場から少し南側にいるようだ。アレックスが火事から逃げてきたとすると、第四工場から順に……」
「じゃあ、こっちね!」
レイモンドの説明を最後まで聞かずに、ジュリアは路地を走り出した。両側に建物がある暗い路地だが、向こうから炎の光で照らされて足元は明るい。少し幅の広い道路に出た時、向かい側の建物の陰に誰かが蹲っているのが見えた。
ゴウッと一瞬大きく燃えた炎が照らしだしたのは、真っ赤な髪と金色の瞳だ。
――いた!
「アレックス!」
いるはずがない恋人の声を聞き、アレックスは耳を疑った。
「嘘だろ?……ジュリア!?」
走ってきて首に抱きついた温もりに、ジュリアが本当にいるのだと実感した彼は、髪をぐしゃぐしゃに乱してジュリアを抱きしめた。
「……よかったな、アレックス。迎えが来たんだ、逃げろ」
「ダメだ、ブルーノ。俺は……」
「ちょっと待って、アレックス。この人、ブルーノさん?」
「ああ。こっちに来てすげえお世話になってさ……おっと」
アレックスを退かして、ジュリアはブルーノの前に屈みこんだ。
「……何だ?」
「帰ろう、コレルダードに。アントニアが心配してる。私達、あなたを探していたの」
ね、レイモンド?というように視線を向ける。レイモンドはやれやれと肩を竦めた。
「立てないなら、俺が背負っていく。アレックスは細かい怪我をしているようだからな。ここは危ない、一刻も早く逃げるぞ」
背中を向けたレイモンドに、ジュリアがブルーノを背負わせた。
「……ありがとう。役に立たねえ俺なんか、助けなくてもよかったのに……」
「フン。そう僻むな。君には重要な役割がある。コレルダードからフロードリンに連れて来られて、劣悪な環境で働かされていたと証言してもらうぞ」
「塀の出口は、私達が知ってる。火事で混乱しているうちに、他の皆と一緒に逃げ出そう」
脚の痛みに顔を顰めたアレックスを励まし、ジュリアは遠くに聳え立つ塀を真っ直ぐに見つめた。




