40 悪役令嬢と真夜中の訪問者
薄く漂う甘い香りに、マリナが目を覚ました時、辺りは真っ暗だった。
マリナがベッドに入り、侍女達は一礼して出て行ったのだから、部屋には自分以外誰もいないはずである。
カサッ。
物音に身を縮ませ、寝具を引き寄せる。マリナが動いた気配に動揺したのか、何者かが動きを止める。
――誰かいる。
王宮内で泥棒などいないだろう。いるとしたら暗殺者くらいだ。
父侯爵の話では、あの場にいた貴族は全員、ハーリオン侯爵令嬢マリナが王太子のお手付きになったと思ったらしい。王太子が未婚の令嬢に手を出したとあれば、マリナが妃か妾になるのは決定事項である。ハーリオン家が力を持つのを苦々しく思う者もいただろう。妃にならないうちに潰してしまえと。
甘い香りは何なのだろうか。暗殺者なのに香水をつけているのか。あるいは毒の香りか。毒薬は口に含んだ瞬間は毒と分からないと聞く。
寝たふりをすべきか、光魔法で照らして助けを呼ぶべきか。王宮は見張りの兵士がたくさんいるし、すぐに誰か来てくれるだろう。だが万が一、助けが来なかったら?助けが来るのが遅くなったら?
マリナは震えながら様々なシミュレーションを繰り返した。
ギシッ……
ベッドの片側が沈み込む気配がした。布が擦れる音がし、何者かがマリナに近寄る。
――来た!
マリナはがばっと跳ね起き、素早く光魔法を詠唱すると、光る球を天蓋の内に浮かべて辺りを照らした。
「誰っ!」
「うっ!」
激しい輝きに、目が慣れていないマリアは、呻いた相手が誰か分からなかった。ぼんやりと相手の様子を見るに、体格差はあまりなさそうだ。
が。
マリナは微動だにできなかった。
「……セドリック様?」
目を押さえてベッドの端に蹲っている人物に呼びかける。
セドリックは目を何度か瞬かせて、いつものキラキラした笑みを浮かべると、マリナに向き直った。どんな時でも綺麗な顔だが、何故ここにいるのか。
「ごめん、マリナ。君を驚かせるつもりは……」
「思いっきり驚きました。暗殺者でも送り込まれてきたのかと思いましたわ」
「本っ当にゴメン。その、暗殺者のこと、僕も気になってね。警戒するつもりで隠し通路を辿って来たんだけど……」
マリナはドキリとした。王太子妃候補が殺されるような話がでているのか。
「君の寝顔を見ないでは帰れないと思って……部屋の中に」
若干引いた。若干というより、思いっきり引いた。
先ほどまで彼に恋したかもしれないと悩んでいたのが馬鹿らしくなるほどだ。
「そういうのを夜這いって言うんですよ、殿下」
「よ、よば……ちが、僕はこれっぽっちも疾しい気持ちはないよ!」
慌てて手を振る。信じてくれと言わんばかりに手を取られ、二人の距離が接近する。
「王妃様から、私に近づくなと言われたと聞きましたけど」
「君が心配だったんだ。強硬派の貴族は、中立派の君の父上をよく思っていないし、今日のことで僕が君を妃に決めたと噂になっているから、何か起こすのではないかと」
「そもそも、殿下が一人に肩入れなさるから……」
「貴族には派閥があることは、僕も理解しているよ。できればすべての派閥から妃や妾をとって平等に扱えばいいともね。でも、マリナはそれでいいの?」
見つめられて自分の姿を確認する。王妃御用達の店のネグリジェは少し透けて身体のラインが見えてしまう。十二歳の花も恥じらう乙女はこんな姿を見られてはいけない。マリナは膝を抱えて座り、鼻先まで寝具を引き上げると、横目でセドリックを見た。
何と答えるべきか。
私だけを愛してくれと言えば、王太子は有頂天でマリナを抱きしめるだろう。他の令嬢とあなたを共有してもいいと言えば、少しだけ自分の心が痛む予感がする。だけど……。
「セドリック様。私は筆頭侯爵家たるハーリオン家の令嬢、幼い頃より王妃になっても恥ずかしくないように十分な教育を受けて参りました。国家安寧のため、王が世継ぎを必要とするのは当然のこと。王妃であろうとも王の寵愛を一身に受けるなどありえないと」
「父上は母上ただ一人を愛しておられる!」
「国王陛下が妾を持たないと決められた折、多くの貴族が反対したと聞き及んでおります。元王太子妃候補であった我が母も、一時候補に挙がっていたとか」
「それは……」
「ましてや殿下は現国王陛下の唯一の後継者であらせられます。王家の血筋が途絶えぬよう、多くの妾を持つことでしょう。仮に私が妃に選ばれても、殿下はお気になさらず、側妃の皆様とお過ごしになられればよろしいのです」
言い切った達成感にマリナは酔いしれた。何となく発狂王妃エンドのフラグを立ててしまったような気がするが。妾はいくらいてもいいから、王立学院のパーティーで断罪して侯爵家を没落させるのだけは勘弁してほしい。
セドリックは黙っていた。頷くでもなく、否定するでもなく。マリナの手を放し、ベッドに正座して拳を握りしめている。
「……それが君の答えなんだね」
「はい」
「僕が、他の令嬢と仲良くしてもいいと」
「はい」
できればゲームのヒロイン以外でお願いしたいとマリナは思った。没落死亡エンドや発狂王妃エンドを回避するためには、ヒロインとセドリックが仲良くなってほしくなかった。胸は痛むが他の令嬢ならば……胸が、痛む?どうして?
マリナは表情を変えずにセドリックと会話しているつもりだった。いつの間にか胸元の寝具を握りしめ、苦しそうに顔を歪めていたとも知らずに。
「……分かった」
ベッドから降りたセドリックは、隠し通路へ出て行こうとして振り返り、
「お休み。……ハーリオン侯爵令嬢」
優しい瞳でマリナを見つめた。
壁の向こうにセドリックの姿が見えなくなると、緊張の糸が切れマリナはベッドの中に崩れ落ちた。




