374 悪役令嬢は警告される
ハーリオン侯爵家の分家が代々暮らしていた邸に、小さな影が忍び込んだ。周りを囲む壁を上り、辺りに人がいないのを確認して内側の芝生に下りる。
植栽の間を抜けて建物に近づき、宵闇の中で灯りが漏れている窓を見上げた。
「うふ、ふふふふ、やだなあ、マリナ、くすぐったいよぉ」
靴を脱がされ、アリッサとエミリーの二人がかりでベッドに転がされたセドリックは、マリナに介抱される幸せな夢を見て、ひっきりなしに笑っていた。
「……アリッサ。こいつ、シメていい?」
「だめだよ、エミリーちゃん。いなくなったら、グランディアが大変なことになっちゃう!」
アリッサの意見ももっともだが、セドリック本人のことは心配していない。どちらかと言えば、王太子である彼を失った場合に起こる問題を気にしているようだ。
「……執事にも迷惑をかけたね」
「驚いていたわね。セバスチャン」
「は?ジャイルズでしょ?」
「いいえ、ここの執事はセバスチャンだって、うちの執事のジョンが言っていたもの。同じお邸にいた頃は、チェス仲間だったんですって」
「何それ。老人クラブの囲碁大会みたいな?」
「多分……だから、ジョンが名前を間違うはずはないわ」
エミリーは考え込んだ。
セドリックが酒で酔い潰れる前に、町の人たちと話した時、彼らは口々に邸の執事の名を語っていた。――ジャイルズと。
ジャイルズ・ディークイル。確かそんな名前だと言っていた。
「……酒場の話と違うわ」
「人が変わっても、ジョンやお父様が知らないでいられるかしら?」
「執事を決めるのはお父様だから、知らない人が執事になるなんてあり得ない」
「なら、私達をもてなしてくれている彼は、誰なのかしら?」
カツン。コン。
バルコニーの窓から音がして、エミリーはさっと表情を引き締めた。
「アリッサ、離れてて!」
風魔法で窓を全開にすると、バルコニーと同じ高さの枝から、石を投げている子供がいた。
推定年齢十歳くらいだ。アリッサとエミリーをじっと見つめている。
「……子供?」
「こんばんは。あなた、こんな時間に出歩いたらいけないわよ」
窓へ近づきかけたアリッサを手で制し、エミリーは結界を張りながら歩み寄る。
「……何の用かしら」
「姉ちゃんたち、王都から来たんだろ?……悪いことは言わないから、今すぐこの町を出て行け!」
「は?」
エミリーの目が据わる。いきなり現れて、出て行けとは何事か。
「あのね……どういう……」
どういう意味?と訊ねようとして、アリッサがドアの外の物音に反応した。
「ん?」
振り向いたエミリーと目が合い、細かく首を横に振る。
――誰か来る!
風魔法で窓を閉め、何事もなかったかのように二人は椅子に座った。
「アリスさん、エマさん。スタンリーさんの具合はいかがですか?」
声はあの老執事だ。アリッサがドアを開けて応対する。
「ええ。おかげさまで、もうぐっすりです」
白々しくふふっと笑う。
「それはようございましたね。当地の酒は強いですから、男性でも参ってしまいます」
「皆さんのおもてなしに感激いたしました。スタンリーは明日、二日酔いで大変でしょうね」
「お二人はお加減はいかがですか。夜に飲むと身体が温まるお茶をお持ちしました。今晩は星も明るく、外は冷えておりますから、よろしければどうぞ」
「まあ、ありがとうございます」
アリッサはワゴンごと紅茶セットを受け取った。
「ワゴンは明日お返ししますわ」
「はい、いつでも構いませんよ。……では、おやすみなさい。よい夢を」
執事が廊下へ消えてしばらく経ってから、エミリーは窓を開けた。先ほどの少年はまだ、木の上でこちらを見ていた。
「まだいたの?」
「姉ちゃんたち、早く逃げろ」
「逃げる?」
物騒な発言だ。逃げなければ何があるのだろう。
「きっと今晩、町の大人がここに来るよ。そこで寝てる兄ちゃんを酔っ払いにしたのも、姉ちゃんたちが逃げられなくなるようにだよ」
「あなたは何を知っているの?」
アリッサはバルコニーへ出て少年に尋ねた。彼はぶんぶんと首を振った。
「言えない。……言ったら、町の皆が……」
「お願い、教えて?」
「姉ちゃんたちは町の秘密を知ろうとした。――だから、殺される!」
言い切った少年の瞳に狂気を感じ、アリッサの背筋が凍った。
◆◆◆
「こちらです、さあ」
女の手引きで地下室から出て、店の裏口へと回る。
「ここから出れば人目に付きません。あの人が戻らないうちに、早く」
「ねえ、あなたも一緒に行こう?」
「いいえ」
「何故だ。あの男は女子供に暴力をふるうような輩だぞ。逃げ出せる隙があるなら……」
女は弱々しく首を振った。
「逃げる?そんなのできません。私が逃げたら、ブルーノが酷い目に遭わされます。あの男は工事関係に顔が効くと言っていました」
「ブルーノって?」
「私の婚約者です。治水工事の時に連れて行かれて、それっきりです」
「連れて行かれる?」
レイモンドが渋い顔をした。貴族領では労働力の搾取は禁じられているのだ。
「ここの街も村も、工事の労働は強制じゃないはずだよ?手当を示して募集してるのに」
「一昨年は強制でした。聞けば去年もそうだとか。連れて行かれるのは体力のありそうな若い男ばかりだと」
「どこへ連れて行かれたか分かる?」
「知りません。友人のマークが乗合馬車の御者をしていて、方々調べてもらったのですが、ブルーノも一緒に連れて行かれた人達も、この領内の工事現場で見たことがないとか」
「ここじゃないってことか」
「行き先も安否も不明か。……さぞつらかろう」
「心配して弟が来てくれたのです。私を連れ出そうとして、あの人に殴られてしまって」
「弟さん……あの子、今いくつ?」
「十四です。上背があるから、近いうちに連れて行かれるかもしれません。そうなったら、私、私……」
ぽろぽろと涙を落とす。ジュリアは肩に手を置いて視線を合わせた。
「ブルーノさんの行き先も、弟さんのことも、私達が何とかするよ。だから安……」
安心して、と言い切らないうちに、レイモンドが脇腹を肘でつついてくる。
「おい、ジュリア」
「何?」
「適当に安請け合いするな」
「いいじゃん、結果的に助けるんだから」
こそこそと小声で話し、再び彼女に笑顔を向ける。
「ブルーノさんのこと、少し詳しく教えてもらえるかな?」




