373 悪役令嬢は腿を撫でられる
ぎちぎちと縄が手首に食い込む。ジュリアは身を捩って冷たい石造りの床を移動する。
「レイモンド、ねえ、レイモンド!」
声が暗い地下室に響く。自分の声なのに、反響して自分のものに思えない。
――怖い。
アレックスと二人で攫われた時とは違う。レイモンドは気を失っているのか、あるいは死んでしまったのか、うつ伏せに床に倒れたままピクリとも動かない。
自分のおせっかい気質が彼をこんな目に遭わせてしまった。悔しくて涙が出る。
――ゴメン。アリッサ。私、大事な『レイ様』を守れなかったよ。
少年を殴ったと思われる男は、店の中にいた女のパトロンだった。パトロンと言っても、十分な金も与えられずに女をいいなりにしていた。
「あの人……脅されてた……」
『ブルーノがどうなってもいいのか?』
レイモンドの腹に一撃を加え、ナイフで反撃しようとスカートを捲りかけたジュリアを蹴り、止めようとした女にあの男は言った。ブルーノが誰だか知らないが、女はその人を人質に取られ、男の傍を離れられないでいるのだろう。
娼婦の話にあった、男手を連れて行かれた農家の娘なのかもしれない。彼女を助けに来たと思われてこんなことになってしまった。余計なことに首を突っ込むんじゃなかった。
――脅して従わせるなんて、あのガタイのいい男、絶対ヤバい奴だな。
ジュリアは溜息をついた。逃げ出せる気がしない。
意識を失ったレイモンドと二人、蹴り転がされるように地下室に落とされた。頼みの綱のナイフは何とか無事だが、自分では取ることができない。レイモンドが起きてくれたらナイフを取ってもらい、活路が見いだせるのに。
「お願い。レイモンド、起きて」
身体を寄せて耳元で囁く。少しだけ瞼が動いた気がする。
「……困った。うーん……あ、そうだ!」
何度か咳払いをして「あ、ああ、あ」と発声練習をすると、ジュリアは再び彼の耳元に囁いた。
◆◆◆
「……ジュリア。君は痴女なのか」
目覚めたレイモンドが、自分の置かれた状況を確認し、開口一番ジュリアに投げかけた一言は暴言だった。
「やだなあ。さっきのは起こすための冗談だってば」
「冗談にしては度が過ぎている。……アリッサの声真似をするなど。君は四つ子の姉なのだから、声は似ているところはあるが……しかし……」
ジュリアが囁いた言葉は、意識があやふやなレイモンドを叩き起こす効果はあった。
『レイ様、アリッサのこと、ぎゅって……痛くしてください』
『アリッサのこと、いっぱいいじめてください!』
『レイ様……アリッサのこと、嫌いですか?冷たくされるとドキドキしちゃうの……』
アリッサは自分のことを名前で呼ばないが、そこはご愛嬌である。作戦通り、まんまとアリッサもどきのドM発言にレイモンドは覚醒した。
「何?気に入らないの?」
「ああ、気に入らないな。……君が言ったというのが特に」
「?」
アリッサの口から聞きたかった、と吐き捨てたレイモンドに気づかず、ジュリアはスカートの裾を蹴って捲り上げた。
「ねえ、ここからナイフを取ってくれる?後ろ向きで」
「……俺が下手をしたら、脚に傷ができてしまうぞ」
眉を寄せたレイモンドは、ジュリアを……ジュリアの脚を心配していた。
――コイツ、やっぱり脚フェチだ……。
後ろ向きのレイモンドの長い指が、晒された脚を辿っていく。膝から腿に差し掛かり、ジュリアはひっと息を呑んだ。触り方がちょっと、アレだ。
「どうした?」
「何でもないよ。続けて。あと少し……そう、よし、やった!」
鞘からナイフが抜け、カランと床に落ちた。後ろ向きになって拾い、ジュリアは自分で縄を切った。すぐにレイモンドの縄も解いてやる。
「……ほう、手際がいいな」
「前にも一回捕まってるから」
胸を張るジュリアにレイモンドが苦笑する。
「これからどうする?あの男が家を出た隙に逃げるか」
「そうだね……出かけたかどうかだけでも分かればいいのに。地下室だから分かんないね」
話し合っていると、地下室のドアから音がした。
はっと顔を見合わせ、腕を縛られたままのふりをして床に寝転がる。
「……ごめんなさい」
薄目を開けたジュリアが見たのは、憔悴しきった女の顔だった。
◆◆◆
『銀のふくろう亭』二階の部屋で、マリナとアレックスは話し続けていた。狭い部屋には粗末なベッドと机と椅子が一つずつしかない。マリナがベッドに座り、アレックスが木の椅子に背凭れを前にして跨った。父の死のショックで、宿屋の息子のクリフトンは早々に寝室に引き上げて行った。明日には彼の父を埋葬する予定になっている。
「クリフトン、可哀想だな。いきなり親父さんが死んだって、しかも、あんなところを見せられて。……俺の父上は殺しても死なないような男だけど、騎士だからいつかは国のために命を賭けるかもしれない、死ぬかもしれないって、俺、母上に言われてたんだ。突然大好きな家族がいなくなるって、こういうことなんだな。真剣に考えたことなかったよ」
「……そうね。クリフトンにとってはたった一人の家族だったのよ。……父上が目を離した隙に、この街が変わってしまって、幸せな日常が狂っていったんだわ。私がセドリック様の妃候補になって、学院に入学して……浮かれていたこの二年間に!」
両手で顔を覆う。細い肩が小刻みに震え、アレックスはマリナが泣いていると分かった。
「……お前のせいじゃないよ」
「私が……私がお父様の時間を奪ったから……っく、ううっ……」
「あー、もう!」
次の瞬間、マリナは力強い腕に包まれていた。
椅子から立ち上がったアレックスは、目を瞑ってマリナを抱きしめた。
「……アレックス?」
「殿下には言うなよ?俺、この歳で人生やめたくないから」
ドクン、ドクン、ドクン……。
規則正しく、やや速いアレックスの鼓動が、マリナの耳に直接流れ込んでくる。
――やだ、何で、こんな……。
頬が紅潮するのが分かる。顔を見られたら、誤解されてしまいそうだ。
「泣き止んだか?」
頬に手を添えられると、息が止まりそうだった。金の瞳に覗きこまれ、マリナは涙に濡れた瞳を閉じた。




