371 悪役令嬢は付け狙われる
客室から出て廊下を走り、階段を駆け下りると、ジュリアは好奇の視線に晒された。身なりのいい若い男と一緒にいた女が、部屋に戻って間もなく逃げてきたとあって、男達にしなだれかかっていた娼婦達は、酷い目に遭わされたのだろうとジュリアに同情した。
連れ込み宿から出るも、娼婦から聞き込みをしていた時間が長かったためか、夕闇が迫ってきている。
「……引き返せない、よね」
ジュリアは心を強く持って顔を上げ、酔っ払いが歩く歓楽街へと進んだ。
見慣れない美人が通り、街の男達が口笛を吹いた。
「よお、お前さん、新入りかい?」
娼婦だと思って声をかけてくる者もいる。曖昧な笑みで躱し、足取りを速めて過ぎる。
――ヤバイ。つかまったらおしまいだ。
レイモンドが服を買ってくれた店があったあたりなら、まともな店があるかもしれない。宿屋はあったかどうか記憶にない。
「……おい」
背後から低い声がした。
――さっきの男?
振り返るのも怖くて、ジュリアは小走りになる。細い路地に入って追っ手をまいてもいいが、道がよく分からない。大きな通りは比較的明るくても、建物と建物の間の細い道は殆ど光が届かない。行き止まりだったら終わりだ。
「待てよ」
「待たない!じゃっ!」
軽く手を挙げると、手首をがしっと掴まれる。
「やめて!」
「待てってば」
――しつっこいなあ!
ジュリアはスカートを跳ね上げ、振り向きざまに回し蹴りをした。露わになった腿に手を当て、ベルトに挟んだナイフを……。
「……あれ?」
「あれ、じゃない。お前のせいで眼鏡が飛んでしまったぞ」
石畳の腕に座り、眉間に皺を寄せているのは、不機嫌そうなレイモンドだった。宿屋で言い争いになった後で追いかけてきたのだろう。
「ゴメン、変な奴かと思って。来る途中で声かけられててさ」
「勝手に出て行くな。……まったく、行動的すぎるのも困ったものだな」
「眼鏡……壊れちゃった。どうしよう」
「こんな街でも眼鏡屋くらいあるだろう?商店街に戻ろう。……悪いが、俺の腕に掴まってくれないか」
「うん。私が目になるから。……本っ当にごめんね。でもさ、私」
「さっきは俺が悪かった。君はアレックス以外の異性が目に入らないと、幼い頃から見て知っていたはずなのに。……女性と二人きりで宿屋に泊ったことなどなくてな。ベッドが一つしかなくて気が動転してしまった」
視線を合わせずに静かに話すレイモンドの耳が赤くなっていた。
「夜が更けてきたな」
「店が閉まる前に急ごう」
二人が商店街に差し掛かると、どこからか叫び声が聞こえた。
「……聞こえるか、ジュリア」
「うん。何だろう……人の声?あっちから聞こえる」
ジュリアに腕を掴まれたまま、レイモンドは引きずられるように路地へと入った。
灰色の壁が続く細い路地には、見渡す限りごみが散らかっており、ごみ箱を漁る黒猫が飛び降りて二人の横をすり抜けた。
「酷いな」
「王都でもこんなところはないよね」
「貧民街か?」
「前はこんなのなかったよ。ここは普通のアパートが建ってて」
壁から視線を上げると、アパートの窓が見える。冬だというのに開けっ放しで、ボロボロになったカーテンが風に吹かれている。
「……住んでないのかな」
「治安が悪くて逃げたんだろう。……声が近いな」
「行こう。助けてって言ってる!」
「お、おい!」
ガン。ドスン。
「やめて!」
「キャーッ!誰か来て!」
ジュリアは半開きになっていた古い店のドアに手をかけた。こちらが開ける前に、向こう側から開けられ、中から顔を腫らした少年が出てきた。
「……ちっ」
一瞬目が合ったかに思われたが、舌打ちをしただけでいなくなってしまった。
「ねえ、悲鳴が聞こえたんだけど、大丈夫?」
店の中には息も荒く床に蹲る女が一人。店は奥に細長く続いていて、天井から吊り下がる照明が点滅している。魔法球が切れかけているのだ。
「……大丈夫よ」
「今出てった子、顔怪我してたけど……」
女の傍に膝をつき、ずれ落ちた毛糸のショールを肩にかけ直してやる。
「ちょっとした親子喧嘩よ」
「えっ、あなたが殴ったの?いやあ、見た目に寄らず力あるね」
「……それは……」
口ごもった女の上に黒い影が伸びる。ジュリアが顔を上げると、体格のいい男が二人を見下ろしていた。
◆◆◆
「そうかそうか。奥さんの病気がねえ……」
「特効薬もなく、いい治癒魔導士も見つからず……こうして自然豊かな地で療養すれば、快方に向かうのではないかと思いまして」
若妻エマと彼女を気遣う献身的な夫スタンリー、エマの兄嫁で美貌の未亡人のアリスは、ものの数分で町の人々に囲まれた。
「まだ若いのに、苦労しているんだねえ」
「そっちの姉さんの旦那も、同じ病だったのかい?」
「え……」
アリッサはちらりとエミリーを見た。細かい設定まで決めていなかったのだ。
「は、はい。……夫は去年の冬に、流感にかかって呆気なく」
「まあ。お気の毒に。まだ若かったんだろう?」
「二十二歳でしたわ」
このままだとエミリーがいもしない夫の闘病記を語り尽くす羽目になる。セドリックは必殺王子スマイルを振りまいた。
「それで、僕達はエマに美しい花園を見せたいんだ。……冬だけど、どこかないかな?場所だけ教えてもらえれば、もう少し温かくなってからでもいけると思うんだ」
「花ねえ……」
「俺達、食うもんしか作らねえからな」
若い男がぽりぽりと頬を掻く。
「そうそう。元々冬は作物が取れない土地だろう。ハーリオン様はとにかく食材になるものをたくさん作るようにと、品種改良した苗を配ってね。私らはそれを増やしてきたんだよ。花なんか二の次さね」
恰幅の良い酒場の主人が酒を持ってきた。
「ほらよ、これは俺からのおごりだ。たあんと飲んできな!」
大瓶を前にして、アリッサは顔を強張らせた。
――飲んだら酒乱になっちゃう!
晩餐会でのマリナの振る舞いを思い出し、セドリックはごくりと唾を呑みこんだ。
「ありがとう!ご主人。……エマは病気だし、義姉さんは酒に弱いから、僕がいただくよ」
と言うな否や、グラスになみなみと注いで一気に呷った。




