359 悪役令嬢はおばちゃんパーマをかける
「エミリーちゃん……歩くの疲れたよぉ……」
リリーから借りた侍女の服を着て、エミリーの魔法で髪と瞳の色を変え、伊達眼鏡をかけたアリッサは、大通りをよろよろと歩いていた。侍女が馬車を使うのはおかしいと、エミリーは図書館まで歩く提案をしたのだ。
「しっ、アリス。誰が見ているか分からないんだから、ね?私はエマ!分かった?」
「うう……ごめん。言い慣れなくて」
お揃いの黒いワンピースに白いエプロン。赤毛を三つ編みに結った青い目、丸眼鏡の侍女がアリスことアリッサである。エミリーは黒髪のアフロヘアに近いおばさんパーマで、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけている。邸の主人に言われて調べ物をしにいくというシナリオだ。
遅れ始めたアリッサの腕に自分の腕を絡め、エミリーはずんずん歩く。
「エマちゃんはいつも魔法で移動してるのに、歩くの早いよね」
「精一杯歩いてるの。……マシューを助けるためにできることはしたいの」
「……うん。私も頑張る」
◆◆◆
図書館に入り、エミリーはアリッサを報告書のコーナーに連れて行った。ここには、国内全ての土地のあらゆる産業の報告書が揃っている。グランディア王国においては、領地を治める貴族は、毎年報告書を作成して国王に提出しなければならない。王宮の執政官達が内容を点検した上で、各領地から王家へ納める金額を決めるのだ。農産物や物産品を代わりに納付してもよい。報告書の副本は全て王立図書館に置かれる。どの土地でも過去五年分は報告書が閲覧できるようになっている。特に重要な拠点となる都市――ハーリオン侯爵領では港町ビルクールと工業都市フロードリン――の報告書は十年分閲覧できる。
「うちと、隣の領地の報告書を読んで、ざっくり内容を覚えればいいのよね」
「そう。それができるのはアリスだけ。……私は、移動手段を調べてくる」
報告書を読んで覚えるのは時間がかかるだろう。エミリーはゆっくり歩いて、旅行に関する本の棚へ移動した。
旅行本の棚の前で、エミリーは渋い顔をした赤髪の男と、遠くから彼を見つめてきゃあきゃあ言っている女子の群れを発見した。
「……アレックス?」
――見間違いか?図書館に来るわけがないし。
他人のふりをして通り過ぎようとする。アレックスの背後に差し掛かった時、
「……読めねえ……」
という呻き声が聞こえた。
――外国語の旅行本か。読めるわけないな。
フッ。
つい笑ってしまった。
「ちょっと、あなた!」
女子軍団が声を荒げた。エミリーの前に立ちはだかる少女達の服装を見る限り、下級貴族か商家の娘といったところだ。顔を見たことがないから、王立学院入学前の年齢なのだろう。
「……?」
きょろきょろと辺りを見回す。自分とアレックス以外はいない。
「あなたよ、あなた!」
「もしかして、私?」
「あなたよ。爆発頭のあなた」
魔法で姿を変えたと言っても、容姿を貶されたことがないエミリーはカチンときた。
「……何?」
「今、あの方を笑ったでしょう?」
「は?」
「あの方よ。赤い髪の、物憂げな様子で本を探していらっしゃる……素敵な殿方よ」
「はあ?」
ぐるりと回れ右をして、アレックスを確認すると、彼はまだ棚を睨んだままだ。本のタイトルが読めずにいるのだろう。
「アスタシフォン語の題名が読めないようだから、教えてあげたら喜ばれるわよ」
にやり。
「まあ、嫌味な女ね。私達が読めないと知っていて」
貿易を生業とする商家の娘でなければ、王立学院入学前にアスタシフォン語を学ぶことはないのだ。エミリーは嫌味を言ったつもりはなかったが、彼女達の怒りを増幅させてしまったらしい。
――ああ、面倒だなあ。図書館に何しに来てるの、こいつら。
少女達を無視して、エミリーはつかつかとアレックスに近寄った。彼の視線の先を追い、読もうとしている本の書名を読み上げる。
「『アスタシフォン東岸の観光地』……」
「え?あ、こ、これ?」
「……そう。題名が読めないなら、中身も読めないわよ」
「そうだよね……俺には無理かな、ははは」
笑顔を浮かべたアレックスを見て、女子軍団は再びきゃあきゃあと黄色い声を上げた。
「……さっきから、あそこ」
「あそこ……ああ、あの子達?」
「あなたを狙ってるわよ。……ジュリアに半殺しにされたくなかったら、さっさと退散することね」
にやり。エミリーは口の端を上げて笑った。
「ジュリアって……あ!」
アレックスは金色の瞳を丸くして口を開けた。開けた口はしばらくそのままだった。
「……君、エミぅんぐっ!」
「エマと申します。……変装してるのに名前呼ばないで」
背伸びしてアレックスの口を塞ぎ、エミリーは瓶底眼鏡の奥の瞳をぎらつかせた。
◆◆◆
「フロードリンは……あった、あそこね」
東部の工業都市フロードリンは、紡績業が盛んな地域である。近隣の農村部では牧羊が盛んに行われており、ハーリオン家が持っている紡績工場では、契約農家から直接羊毛を買い上げて質の良い毛織物を製造している。基本的な情報はアリッサも知っていたが、近隣の領地ともなるとさっぱりである。
フロードリンと近隣の貴族領の報告書は、棚の一番上にあった。アリッサは頑張って腕を伸ばした。もう少しで届きそうだが、近くには踏み台がない。踏み台を探しに行くと、方向音痴の自分は迷ってしまうかもしれない。
「……よし!」
棚から三歩下がり、アリッサは勢いをつけて棚の前で飛び上がった。指先が本の背表紙を掠めるが、取り出せるところまではいかない。
「もう少しだわ!」
再度下がって飛び上がる。何度か本を掴み、少しずつ前に出す。ぴょんぴょんと跳ねていると、何となく取れそうなくらいに棚から出てきた。
――あと一回!
ドン!
後ろを確認せずに三歩下がったアリッサは、誰かにぶつかった。
「あ、ごめんなさい……っ!」
振り返ったアリッサの肩に、骨ばった大きな手が置かれた。
「こんなところで、そんな格好で……何をしている?アリッサ」
レイモンドは中指の背で眼鏡を上げ、凄味のある微笑でアリッサを見下ろした。




