350 悪役令嬢は「木ドン」される
「ジュリアー!どこだー?」
遠くからアレックスの声がした。この状況を見られるわけにはいかない。まさにレナードとの浮気現場だ。アレックスの野生の勘は鋭く、声がだんだんとこちらへ近づいてきている。薄目を開ければ、レナードはアレックスの声など耳に入らないといった様子で、うっとりとジュリアを見つめている。
――手だけでも放してもらわないと……。
ジュリアは身を捩った。背中が思い切り木にぶつかる。肩甲骨の辺りが痛い。
「逃がさないよ?」
明るい青の瞳が妖しく輝いた。
ドン!
壁ドンならぬ、木ドン状態である。
――ええええええ!逃げられない!?
ドサドサドサドサ……。
――!?
視界が真っ白になった。
ジュリアが背中をぶつけたのと、レナードがジュリアを木に押し付けた衝撃で木が揺れて、枝の上にあった雪が二人の上に落ちてきたのだ。
「ぶわっ……うわあ、……ジュリアちゃん、大丈夫?」
掴んでいた手を引き、頭と肩に雪を載せたレナードはジュリアを立たせて雪を払う。
「うん。大丈夫」
「ふっ……はは、はははっ、はははは……」
腹に手を当て、レナードは火が点いたように笑い出した。猫目が優しく細められ、先ほどまで感じさせた激しい熱はどこにもない。
「お前ら、ここにいたのか?……うわ、どうしたんだよ、それ!」
木立を回って二人がいる場所を見つけたアレックスが走り寄ってくる。頭から雪まみれになっているジュリアとレナードに目を丸くした。
「んっとね、雪で遊んでたの。ね?レナード」
「……そ。遊ぶのはこれからだったけどね。いろいろと」
視線が艶っぽい。
――遊ぶってどういう意味よ?
「アレックスも一緒に遊ぶ?雪合戦、小さい頃はよくやったよね?」
王都は年末から一月にかけて、時折まとまった雪が降る。侯爵家の庭にも雪が積もり、ジュリアはアレックスとよく雪合戦をして遊んだ。
「雪合戦って……もうすぐ暗くなるぞ。早く寮に……ってえっ!」
レナードが固めた雪の球をアレックス目がけて投げ、後頭部にヒットした。
「やったな!投げたのはどっちだ?」
「俺」
「覚えてろよ!もっとでっかいのお見舞いしてやる!」
アレックスは低木の上に載った雪を両手で掴み、ぎゅうぎゅうと球にした。レナードに向かって力一杯投げるものの、固め方が悪く途中で崩壊した。
「ははっ、アレックスの雪玉、失敗だね」
「ジュリア……お前まで……うっ!」
再び雪玉がアレックスの首に当たり、一部が襟元から背中へ落ちて行った。
「冷てぇえええ!」
襟首から手を入れられず、仰け反って悶える様を見て、ジュリアは大爆笑せずにはいられなかった。
◆◆◆
「アリッサは、先に帰ったのか?マリナと一緒に?」
「いいえ、違いますよ。マリナ嬢はその前にお帰りです」
「誰だ。アリッサと帰ったのは」
レイモンドの頭の中には全く思い浮かばなかった。フローラは学院から去り、ジュリアはアレックスと先に帰っているだろう。
「誰?……どなたでしょうね。アリッサ様のお知り合いのようでしたんで、寮までならいいかなと」
「おい!」
胸倉を掴んで睨むと、エイブラハムは両手を上げて降参した。
「おっと、嫌ですよ、坊ちゃん。俺だって学年と学科くらいは分かりますって。二年の普通科の男子ですよ。背が高くて……あー。あとはちょっと印象が薄いかなあ」
「……二年の……」
「こう言っちゃなんですがね、アリッサ様に関わる男を皆排除しようなんて、ちょっとやりすぎじゃないですか?将来公爵夫人になるなら、社交の経験があったほうがいい。授業時間以外に過ごす相手は、姉妹か坊ちゃんだけなんて、たくさん生徒がいる学院にいるのにもったいなさすぎますよ」
「社交の経験は、結婚後でもいいだろう?」
不機嫌を隠そうともしないレイモンドに、エイブラハムは頬をぽりぽりと掻いた。
「俺がハーリオン家の従僕……ロイドから聞いたんですが、坊ちゃんが王立学院に入学する時に、アリッサ様に若い従僕を近づけないよう侯爵様に頼んだそうですね。何もそこまでしなくてもよさそうなものなのに」
「俺がいない間に、平民の男に掻っ攫われたらたまらんからな」
「アリッサ様は坊ちゃん以外によろめいたりしませんよ。何つーか、信じてないんですか?だから、他の誰かと帰ったくらいで、目くじらを立てて……あ、坊ちゃん!」
へらへらと話す執事見習いを置き去りにして、レイモンドは中庭へ走り出した。
◆◆◆
雪まみれになったアレックスは、自分の部屋の前で化け物を見つけた。
「ひっ!で、出たぁ!」
廊下の途中でレナードと別れたばかりだ。戻れば部屋に入る前に捕まえられそうだ。後ずさりして逃げようとすると、がしっと足首を掴まれた。
「や、やめてくれ!俺は……」
「アレックスぅ……」
「は!?その声は、殿下?」
化け物だと思ったそれは、頭から毛布を二枚被った王太子セドリックその人だった。毛布をよければいつもの美しい……美しい顔が酷いことになっている。
「アレックスぅ……僕は、僕はもう……ずずっ」
「殿下、とりあえず鼻をかんでください!俺の部屋でよかったら、どうぞ」
行きがかり上セドリックを部屋に招き入れ、緊張した面持ちのエレノアにちり紙を持って来させると、アレックスはそっとセドリックに渡した。
「ありがとう」
その後、二回ほどエレノアがちり紙を取りに行き、涙と鼻水を拭いたセドリックは、目の周りと鼻の下を赤くしてアレックスを見つめた。
「どうしたんですか?泣くようなことがあったんですか?」
レイモンドにでもいじめられたのかとアレックスは考えた。彼は王太子と気兼ねなく話せる仲なので、厳しいこともズバズバ言う。
「……日記が」
「日記?ああ、俺とジュリアで運んでるやつですか」
「途絶えてしまったんだ……」
「あれ?俺、さっき帰った時に殿下に渡しましたよね?それから出かけたはずで……」
「うん。アレックスは悪くないよ。僕に持ってきてくれたんだからね。でも、今日のうちにマリナは侯爵邸に帰るんだ。僕も王宮に戻らなければならなくて」
顔に手を当てて泣きそうになっている。マリナのことになると、彼はどうもダメダメになってしまう。アレックスはこっそり溜息をついた。
「ああー。しばらくやり取りできませんよね」
「どうしよう、アレックス。マリナに近寄れない、遠くから見ているだけの毎日なのに、交換日記も続けられなくなってしまったら、僕は気が狂ってしまうよ」
「この程度のことで狂わないでくださいよ。手紙を書くとか、他に方法が……」
「父上にマリナとの交際を反対されているのに?手紙なんか出せないよ。皆父上の命令には逆らえないから、僕が手紙を書いたら出さずに捨ててしまうかも……」
セドリックは疑心暗鬼になっていた。彼にとっては大事な実家である王宮も、自分の味方は誰一人としていない。
「そうですか。じゃ、仕方ないですね」
「仕方ない!?アレックス、君は常に、好きな時に、ジュリアと話して抱き合ってキスできるからそんな冷たいことが言えるんだよ!」
「俺だって好きにできないですよ!……いいですか?殿下。マリナに手紙を書いてください。俺が王宮に行って、殿下から手紙を預かって、ハーリオン家に届けますから」
「……本当に、いいのかい?」
「勿論ですよ。俺に任せてください!」
セドリックは潤んだ青い瞳で救世主を見上げた。




