33 悪役令嬢と思い出の微笑
姉妹が目覚めた時、侯爵邸の中は騒然としていた。
「何かあったの?」
靴も履かず、夜着姿で部屋の外へ出て、ジュリアは侍女を掴まえて尋ねた。
「はい。私も詳しくは存じ上げませんが、ハロルド様が乗船なされたビルクール海運の貿易船が海賊に襲われたと……」
「何だってぇ!?」
ジュリアの大声に驚いた他の三人が次々にドアから飛び出してくる。
「何事なの?」
「ジュリアちゃん、どうしたの」
「……声大きい」
マリナの肩に手をかけ、ジュリアは三人を見て叫んだ。
「大変だよ、皆!お兄様が海賊に襲われた!」
◆◆◆
ビルクールの港にある本社からも、アスタシフォン国の港にある支店からも、ハロルドの安否に関わる情報は一向に入ってこなかった。侯爵は業を煮やし、船での取引を中止にして全船を捜索に回していた。オードファン宰相を通じ、付近で海賊船を取り締まっているアスタシフォン国軍にも協力を求めた。どんな小さな手がかりでも報告してくれと頼んでいた。
「旦那様!」
血相を変えた執事のジョンが、こめかみに血管を浮き立たせて駆け込んできたのは、その日の正午過ぎのことだった。
「アスタシフォン港より魔法便が届きました!」
魔法で送る電報のようなものだ。主に風魔法を得意とする魔導士同士で情報を伝達しあう。王都の魔法便伝令所から届いた急ぎの用件が書かれた手紙が、ハーリオン侯爵の手に渡った。
「兄様は?無事なの?」
ジュリアが手紙を覗き込まんばかりにして父の隣に立つ。
「お兄様……」
アリッサはぬいぐるみの首を絞めて耳を齧り続けている。
「……そうか」
侯爵は深く項垂れた。彼の居場所を示す有益な情報はなかったらしい。
「海賊船を取り締まっていたアスタシフォン国の軍船が、ビルクール海運の船を見つけたそうだ。積荷はすっかり奪われていたそうだが……」
ゴクリ。
部屋にいた全員が唾を飲みこんだ。
「物置として使っていた船室の壁に、走り書きがあったと」
侯爵は手紙をマリナの手に握らせると、優しい手で銀髪を二度撫でた。
◆◆◆
マリナは手紙を開く勇気が持てなかった。
ベッドの上で寝具を引き被り、手紙を握りしめていた。
寝室にはマリナ一人だ。手紙を持って部屋に向かった彼女の気持ちを慮った妹達は、侯爵夫妻と共に居間に残ったのだ。
――怖い。
心が潰れそうだ。
国王の前に出ても物怖じしないであろうに、どうしても義兄の伝言を見る気にはなれない。
このままハロルドが帰らなければ、自分が受け取った言葉が、彼の最期の言葉になってしまうのだ。
出発の日の朝、青緑の瞳に多くの言葉を秘めて自分を見つめた彼に、素っ気ない挨拶しかできなかったことを悔やんだ。
大きく息を吐いて、封書を開いた。
白く飾りのない便箋には、魔法便伝令所の職員が急いで書いたと思われる雑な字が踊る。軍船が見つけたというメッセージは、部屋の壁の目立たないところに書いてあったようだ。
――さようなら、マリナ。あなたの幸せを祈ります。
ハロルド
短い言葉に、心が抉られたような気がした。
名前の終わりは綴りが乱れて読めなかったと報告に書かれている。部屋に血痕があったとも。書いている途中で義兄に何かがあったのだろうか。マリナはハロルドの身に起こった出来事を想像し一人で震えた。
いつも自分に向けてくれた極上の微笑が脳裏に甦る。
――さようならなんて、嫌。
あれきりなんて嫌だ。二年経ったら戻ってくると言っていたのに。
彼の強い想いを恐れるあまり、逃げてばかりいた自分を思い出す。
――いつだって彼は真剣に私に向き合っていたのに、私は?
知らぬ間に涙が溢れ、嗚咽が漏れた。
◆◆◆
貿易船の事件から二か月が経ち、ハロルドの行方は依然分からないままだった。
侯爵夫人は日常を取り戻そうと、マリナを家庭教師に厳しく指導させた。打ち込むものがあれば悲しみを忘れられると思ったのか、マリナもそれに応えてめきめきと力をつけていった。
だが。
ダンスの練習だけはどうしても嫌だと、マリナは母に反抗した。
「幼い頃から聞き分けのいい子だったのに……」
侯爵夫人は残念そうに口を尖らせた。
「嫌なものは嫌なんです、お母様。それに私、ダンスは完璧だと、以前先生に褒められましたし」
家庭教師に褒められた時、マリナとパートナーを組んでいたのはハロルドだ。ジュリアと組んで踊る度に、ハロルドはこうしたっけ、と思い出され胸が苦しくなるのが嫌だった。
「忙しいジュリアに相手をさせるのも可哀想でしょう」
「そうねえ……仕方ないわね。ダンスは免除にします」
「わあ、ありがとう、お母様!」
声を上げてマリナは母に抱きついた。
「……マリナ」
「なあに、お母様?」
「習い事のことだけど、無理しなくていいのよ」
侯爵夫人は娘の背を撫で、優しく微笑んだ。
時系列では、この話の後に番外編「人魚の檻」が入ります。




