277 悪役令嬢は頬を叩く
次の日は、朝からアリッサが登校したくないと駄々をこねるだろうと、三人は予想していたが、自分達より先に起きて制服に着替え終わっている彼女を見て仰天した。
「おはよう、マリナちゃん、ジュリアちゃん。……エミリーちゃんはまだ?」
「お、はよ……アリッサ、あ、えっと」
「おはよう。エミリーはまだよ。昨日は遅くまで、本を読んでいたみたいだったわ」
ダブルデートの話をされたエミリーは、自分の地味な私服はデートに相応しくないのではないかと急に思い立ち、流行の装いが書かれている雑誌を買いにロイドを走らせたのだ。血眼になって熟読していたので、マリナとジュリアは声をかけずに先に寝たが、エミリーは何時まで起きていたのだろう。
「しっかし、あの本、雑誌?こっちの世界にもあるんだね」
リリーの姿がないのをいいことに、ジュリアは前世トークを始めた。
「私も少しだけ見たけど……前半はファッション誌、中ほどにゴシップ記事、読者の投稿コーナーもあったわね」
「うん。ゴシップ記事の一番上にマリナの妊娠疑惑があって笑った」
「酒乱騒動よりマシかしら?」
「……どっちも最悪よ」
ネグリジェ姿でゴーゴンのように銀髪を寝癖でうねらせたエミリーが居間に現れた。
「あら、エミリー。起きたの?おはよう」
マリナはゴシップ記事を忘れようと、明るい声で妹に挨拶した。エミリーは長椅子に座って朝のティータイムを楽しんでいるアリッサの隣に座ると、
「……もう、いいの?」
とだけ訊ねた。
目をぱちぱちと瞬かせたアリッサが、視線を落としてゆっくり頷いたのを見て、横から彼女の頭を抱き込み、自分の頭とコツンとぶつけた。
「何、いい子ぶってんの?」
「……っ!エミリーちゃんには分かんないよ」
「分かるわけない。婚約なんかしたことないから。……でも、呆れた」
「呆れる……?」
「ヒロインに絶対負けないって言ってたの、どこの誰?」
すうっとエミリーの瞳に冷たさが宿る。
「レイ様を取られたりしないって言ったの、誰だっけ?」
「エミリーちゃ……」
「取られたと思うんなら、取り返してみなさいよ。……情けない」
「だって、魔法が……」
「はあ?アイリーンの魔法くらい、私が解いてやるくらいの気概はないの?……アリッサの気持ちなんてその程度」
バシッ。
音の大きさに驚いたマリナは、瞬間、エミリーを見た。
……が、叩かれたのはエミリーではない。
「ア、アリッサ?」
ジュリアは頬を真っ赤にしているアリッサを凝視した。両手で自分の頬を叩き、紫色の瞳を潤ませている。
「……ダメね、私。こんなことで弱気になっちゃって」
「だからって叩かなくても」
エミリーがそっと頬に触れると、アリッサは嫌々と頭を振った。
「このままでいいの。これは私の戒めなの」
「……別に治すって言ってないし」
治癒魔法もかけられないのだ。
「レイ様がまた学院に登校してきたら聞いてみる。……魔法の効果が切れているかもしれないし」
「幸い、公衆の面前で婚約破棄されてはいないから、元サヤに収まれば誰も気づかないよね」
「……悪くてもこっそり婚約解消か」
「アリッサを好きだったことを忘れて、一から出直しかもしれないわよ?覚悟はできてる?」
優しい視線を投げかける姉妹に心の中で感謝しながら、アリッサは大きく頷いた。
◆◆◆
「なん……か、その……久しぶりだな」
アレックスは首の後ろを掻きながら気まずそうに視線を逸らした。
「久しぶりだね、一緒に学校に行くの」
あっけらかんと言うジュリアに拍子抜けし視線を戻すと、心から嬉しそうににこにこしている。
「……やべ、可愛……」
「んー、ほんっと、嬉しいなあ。アレックスはあのまま、アイリーンの下僕になっちゃうのかなってちょっと心配だったから」
「んなこと、あるわけないだろ?」
すぐに怒ったような声が返ってくる。
「くっくっ……なんてね。信じてたよ?」
小首を傾げてアレックスの顔を覗きこむ。視線が再び逸らされる。
「見るな」
「アレックスがアイリーンの下僕になるわけないもんね。だってもう、下僕だし」
「俺が?誰の……ああ、殿下の?」
「殿下はアレックスの主君だけど、アレックスは臣下、下僕じゃないよ」
「じゃあ誰だよ。……レイモンドさんとか?」
一瞬アレックスの眉間に皺が寄った。
「いいように使われてるけど、レイモンドは違うよね」
「さっさと答え教えろよ。……校舎に着いちまうぞ」
ぎゅっとアレックスの腕を引き、ジュリアは彼の正面に立った。
「答えは私」
「は?……っ、一生言ってろ」
怪訝そうな顔で見下ろすと、ジュリアは瞳をきらきらさせ、上目づかいでアレックスを見ていた。
「アレックス……私のお願い、聞いてくれる?」
そっとアレックスの手がジュリアの頬に触れる。
「あ、ああ、もちろ」
「おい、そこの『バカップル』!」
ゴスッ。
「でっ……何すんだよ、レナード」
後頭部に一撃を食らったアレックスは、振り向いて友人を睨み付けた。
「バカップル?……レナード、それ」
――もしかして転生者なの?
「この間ジュリアちゃんが言ってたでしょ。周りが見えないでイチャイチャしてる男女のことだって」
「……言ったっけ?」
二年の教室の前で、昼日中からキスしている先輩達を横目に見て、そんなことを言った覚えがある。言われれば思い出してきた。見ているこっちが恥ずかしいのと、婚約者なら校内であんなことをしても許されるのかと思ったのとで、混乱して逃げるように教室に帰ってきてしまったのだ。
「こういう使い方じゃなく?」
「うん。使い方は合ってるよ」
「ならいいよね?俺が止めなきゃ、あの場でアレックスが何をしていたかと思うと気の毒でならないよ」
「アレックス、何かするつもりだったの?」
きょとんとして尋ねるジュリアを前に、アレックスはぼそりと
「いや、何も」
と呻くのが精一杯だった。




