276 悪役令嬢は手紙に涕泣する
ハーリオン侯爵の封蝋がしてある封筒を手に取り、マリナは慣れた手つきでナイフを操る。
白無地に織模様が微かに入った便箋を取り出すと、文面に目を走らせて
「あら」
と呟いた。
「お父様、何だって?」
「ううん、これ、アリッサ宛だったわ。開けてしまってごめんなさいね」
申し訳なさそうに目を細め、アリッサの膝の上に置く。
「お父様、何かな……」
「アリッサが手紙を出した返事じゃないの?クリスの帽子と手袋はお母様に作ってもらうって話」
「……編み物?」
「今年はレイモンドに何かつくるから、忙しいんでしょ?」
「お手紙はお母様に書いたのよ?お父様には……え?」
アリッサは父からの手紙を落としそうになった。震える手でもう一度開き、単語を一つ一つ指で辿る。微かに唇が動くが、顔色は真っ青だ。
「アリッサ?」
ジュリアが横から覗き込む。すぐに
「えっ?」
とアリッサと同じように呟き、呆然としている妹の肩を抱いた。
◆◆◆
「アリッサは、落ち着いたわ」
寝室から出てきたマリナは、疲れ果てた顔で溜息をついた。すぐにリリーが紅茶を用意する。試験を受けられず、一位になれなかったからレイ様に嫌われたと大泣きし、アリッサは疲れて寝てしまった。
「そりゃあ泣くわなー。私だったら泣かないで一発殴りに行くけど」
「殴ってどうにかなる問題ではないわよ」
「……本当なのか?」
エミリーは今一つ信じられないという表情だ。……もちろん無表情にしか見えない。
「お父様が嘘をつくかしら?前世のエイプリルフールの冗談だって、もう少しマシな嘘をつくわよ。……よりにもよって、『公爵家から婚約解消の打診が来た』なんて、病み上がりのアリッサに言うわけがないもの」
風邪を引いて高熱に苦しみ、アリッサが試験を受けられなかったという話は、リリーから執事のジョンへ、ジョンから侯爵夫妻へと伝わっている。ハーリオン侯爵はユーモアを解する男だが、悪い冗談は言わない誠実な人柄だ。手紙の内容も嘘ではないのだろう。
「この間、薔薇園にアリッサを放置したところから、もう何か、おかしかったと思っていいよね?」
「あの変態が夜の薔薇園なんておいしいシチュエーション、……逃すはずがない」
「アリッサはまだ、アイリーンの魔力を弾く腕輪を、レイモンドに渡していないって言っていたわ。こちらが機会を失っている間に、アイリーンが魅了の魔法をかけたのよ。今晩皆に話そうと思っていたのだけれど、セドリック様が見るに見かねて、レイモンドを寮に閉じ込め……謹慎するよう命令したそうよ」
「アレックス達と勉強会をしている間にも、魅了するチャンスはあったでしょ?」
「そうね。レイモンドも気をつけていたはずよ。キースを常にメンバーに入れていたのも、魔法の発動に気づけるように考えたからだと思うの」
「……キースが……?」
「何か思い当たることがあるの?エミリー?」
「テストの日、キースは遅刻スレスレだった。レイモンドと一緒に登校していない」
「そこだ!」
ジュリアが天井を指さして椅子から飛び降りた。
「アイリーンはキースのいない隙に、レイモンドを魅了したんだよ。ほら、レイモンドは今回成績悪かったじゃない?あれって、魅了の後遺症か何かだよね?」
「後遺症なんてない」
「そうなの?」
「……魅了され続けると、死ぬから」
「……」
「……」
コホン。
マリナの咳払いで沈黙が破られた。
「お兄様が何か、レイモンドの噂を聞いていないかって言ったのも、このことだったのかもしれないわ。セドリック様が聞いた話では、レイモンドはお兄様を侮辱するような発言をしたそうだもの」
「ぶじょく……何だろう?『このヤンデレ野郎!』とか?」
「レイモンドがヤンデレなんて言う?……とにかく、アイリーンはこの数日、毎日レイモンドに会いに三年一組に行って、彼にお菓子を食べさせていたみたい」
「お菓子?」
「今日はクッキーだったって。……ちょっと待って」
マリナは通学バッグからハンカチに包まれたクッキーを取り出した。
「ふーん。うまそう!一つもら」
「ダメよ!」
バシッ。
手を叩かれ、ジュリアは口を尖らせた。
「一つくらいいいじゃん、ケチ」
「セドリック様はこのお菓子にも何か入っていると見ているの。薬のようなものがね」
「……調べる?」
口の端を上げて笑ったエミリーに、マリナはハンカチごとクッキーを手渡す。
「お願いね」
「……単なる罪滅ぼし。私はテスト勉強ばかりしていて気づけなかった。アイリーンは休み時間の度にいなくなっていたのに」
「自分を責めちゃだめだよ、エミリー。こうなった以上、お父様が手紙に書いていた通り、アリッサには一度家に帰ってもらおう。お父様もオードファン家から正式に話があったわけじゃないって書いてたし、婚約破棄が噂になっても、新年になれば忘れられるさ」
「ジュリアは楽天家ね。羨ましいわ」
「……それだけが取り柄」
「前向きにならないとやってけないって。追試が三つもあるんだし。……あ、マリナ、後で勉強教えてよ」
「いいわよ」
持つべきものは成績優秀な姉だな、とジュリアは思った。追試までの日数をと、カレンダーを見ると、王太子誕生日という名の祝日が目に入った。
「私達が追試になったから、殿下の誕生日のデートは無理かな。マリナと殿下と、エミリーとキースで」
「は?……何それ、聞いてないし」
「ジュリア、エミリーに言ってなかったの?」
「どうだったっけ?」
「言っても言わなくても、キースとデートなんか無理だから。マシューが暴走して王都が壊滅する」
「そっか、じゃ、マリナは殿下と二人っきりで、王宮お泊りコースね」
「お泊りはあり得ないわよ。デ……デートで許してもらうわ。エミリー、一人でもいいから一緒に行ってくれない?」
「やだ。バカップルのお付きなんてまっぴら」
ぽん。
ジュリアが拳で手のひらを叩いた。
「私ってば天才!」
「……追試三つのくせに?」
「エミリーも『彼氏』を誘えばいいじゃん!」
満面の笑みを浮かべる姉にがっちりと肩を掴まれ、エミリーは口の端を引き攣らせた。
◆◆◆
「はあ……」
試験の日から、キースは溜息ばかりつくようになっていた。
――キースが好きなのは、私?それとも、私の魔力?
じっと自分を見つめて言ったエミリーの声が、表情が、何度も脳裏に甦る。
あの日からエミリーとはろくに会話ができないでいる。朝の挨拶さえままならない。いざ目の前にエミリーがいる状況になると、余計なことを考えてしまって言葉が出て来なくなるのだ。
「欲を出した罰でしょうか……」
いたたまれなくなってエミリーの前から逃げ出したのをきっかけに、休み時間の度に彼女から逃げるように姿をくらませている。逃げるのは楽だが、エミリーに会えないのは苦しい。遠くから眺めるだけでは満足できない。
「あの時すぐに、好きなのはあなただと言えていたら、何かが変わっていたのでしょうか……はあ」
歴史の教科書を逆さまに持って読むふりをしながら、キースは無表情なエミリーの微かな笑顔を思い出し、一人胸を高鳴らせていた。




