269 悪役令嬢と小雪舞う薔薇園
幾分高い薔薇の木に囲まれているとはいえ、四阿には容赦なく風が吹き込む。北風が薔薇の葉を揺らす。
アリッサは白い息を吐き、コートの袖口から出した指先を温めた。
「レイ様、まだかな……」
夕食の時間に待ち合わせだと思っていたが、少し早く来すぎたのかもしれない。夕食の後と言っていたのではないかと思い返す。
「私、ぼんやりしてるから、聞き違えちゃったんだ」
何度温めても、指先はちっとも温かくならない。座っていると、スカートから出た脚も次第に感覚がなくなっているように思う。それでも、レイモンドと会えると思うと、寒さは全く気にならない。
――心が温かいって、幸せなことね。
エミリーから渡された腕輪を渡す他に、アリッサはレイモンドに話したいことがたくさんあった。銀雪祭のプレゼントにセーターを編んでいるが、サプライズプレゼントにしようか、こっそりヒントを教えようか、まだ悩んでいるのだ。
――レイ様が好きな色で、お揃いのマフラーを編もうかな。ふふっ。
強い風が吹き、白い何かが四阿に舞い込んだ。
「雪?」
真っ黒な空を見上げたアリッサは、再び吹いた風に首を竦めた。
◆◆◆
「僕が好きなのは……エミリーさんの、魔力?……でも、僕は……」
言い逃げされたキースは、ブツブツ呟きながら教科書を捲っていた。ページは進んでいるのに何も手につかない。老執事のダンがおろおろと斜め後ろから見守っている。
「坊ちゃま、今日のところはお休みになっては……」
「エミリーさんは……勉強が捗らない……?」
「……坊ちゃま?」
「どうして捗らないんだろう?……もしかして僕を……気にして?」
「坊ちゃま!」
ビクッ!
キースの肩が跳ねた。
「……っ!び、びっくりしたよ、ダン」
「先ほどからずっと、独り言を呟いていらっしゃいますが、何かお悩みなのですか」
「悩み……」
「もしや、先ほど魔法で転移してこられたご令嬢のことで?」
ぱっとキースの顔が赤くなる。ダンはふむふむと目を細めた。
「な、何だよ!」
「いいですなあ、坊ちゃまもお年頃ですなあ。どれ、このじいやが恋愛の何たるかを教えて差し上げましょう」
当の本人より浮かれた執事に、若かりし頃の恋の鞘当て話を延々と聞かされたキースは、どっぷり疲れて勉強する気が起きなくなった。
◆◆◆
「ねえ、アリッサ遅くない?」
「久しぶりのデートですもの、積もる話もあるのよ」
「だとしても、だよ。夕食の前、六時には出てったんだからさあ」
マリナは時計を見上げた。時計の針は九時を回っている。
「レイモンドと話し込んでいるのかしら」
「エミリー、ちょっと行って見てきてよ」
数学の問題を解いていたエミリーは、解を書き終えて顔を上げた。
「……ジュリア、一緒に来て」
「私?」
「何か、嫌な予感がする」
エミリーは紫の瞳を眇め、小雪がちらつく窓の外を見た。
◆◆◆
白い光が消え、エミリーとジュリアは薔薇園に転移した。
魔導士と庭師の合作である美しい庭園は、年中緑の葉を茂らせるこんもりと刈られた薔薇の木々がパウダースノーで雪化粧している。
「さっき、ここまで送った」
「アリッサー!どこー?」
返事はない。風もない静かな夜更けに、白い雪が空から舞い降りてきているだけだ。ジュリアは辺りを歩き回った。
「もう、レイモンドと帰ったのかな?」
「……足跡がない。少しの雪でも、歩けば必ず跡はつく」
――四阿で待ってる。ありがとう、エミリーちゃん。
エミリーははっと目を見開き、ジュリアの腕を掴んで四阿へと走った。
「ちょ、エミリー?」
「来て!」
白いペンキで塗られた木でできた四阿の中は、外側を囲む比較的高い薔薇の木立に隠されて見えにくかった。
エミリーの意図に気づいたジュリアが、先に四阿へ飛び込んだ。
「アリッサ!」
四阿の中のベンチに横たわるアリッサは、青白い顔で意識を失っていた。
◆◆◆
ジュリアが背負い、エミリーが転移魔法を発動させ、三人はマリナの待つ女子寮へと戻った。ぐったりしたアリッサを見てマリナが青ざめ、リリーがすぐに着替えを用意した。
「身体が冷え切ってる。アリッサ、ずっとあそこにいたんだ……あんな寒いところに一人で」
ジュリアが泣きそうな顔で唸った。
「レイモンドの奴、最低……」
左右の手のひらから、青い炎を纏う闇色の魔法球を発生させ、エミリーが復讐を誓った。
「来られないなら、来られないなりに連絡くらいくれてもよさそうなものなのに」
ベッドに運ばれたアリッサの髪を撫でながら、マリナははらはらと涙を零した。
「酷いわ……」
「あの真面目なレイモンドが、約束をすっぽかすなんて、何かあったのかな」
「……知らない。どうでもいい。最低男には制裁を加えるべき」
「実力行使はよくないわ、エミリー」
「マリナだってシメてやろうと思ったでしょ。……アリッサは、今晩レイモンドに会えるって、毎日とっても楽しみにしてた。なのに、こんなの……!」
無表情のエミリーの瞳から悔し涙が溢れる。自分がもっと早く気づいて、魔法で連れ帰っていたら……。
「これからもっと辛いことが起こるかもしれないわ。……私達は攻略対象に疎まれる悪役令嬢なのですもの」
「何悟り開いてんのさ。マリナ。とりあえず、明日の朝、レイモンドを囲んで」
「締め上げるのは却下よ」
「どうして!納得いかない!」
憤ったジュリアが腰に手を当てて眉を吊り上げた。
「様子を見ましょう。……もしかして、彼はもう、敵の手に堕ちたのかもしれない」




